鳴海と沢村は、駅務室の隣にある小さな休憩スペースで、森山恵美を待っていた。鬼塚駅長が殺害された密室の隣だ。休憩スペースは簡素な作りで、使い込まれたスチール製のロッカーと、小さなテーブル、パイプ椅子が二脚置かれているだけだった。
やがて、戸が静かに開いた。森山恵美が入ってくる。彼女は、皺一つない紺色の制服をきちんと着こなし、その顔には、一見して感情を読み取らせないような落ち着きが漂っていた。その視線はわずかにテーブルの表面を彷徨う。彼女はゆっくりとパイプ椅子に腰を下ろした。その際、両手を膝の上で軽く組み、指先をわずかに擦り合わせる仕草を見せた。
「森山さん、お忙しいところ申し訳ありません」と鳴海が切り出した。彼の声は穏やかだが、その視線は森山のわずかな動きも見逃すまいとしているようだった。沢村は手帳を広げ、ペンを構えている。
「いえ、お構いなく。何かお役に立てることがあれば、と」森山は静かに答えた。その声は丁寧で、感情の抑揚があまりない。
「昨夜のことについて、いくつかお伺いしたいことがあります。森山さんは、鬼塚駅長の亡くなる前、最後にいつ彼をご覧になりましたか?」
森山は視線を上げ、鳴海と沢村の顔を交互に見た。
「最後に駅長を見たのは、昨日の閉駅業務が終わる少し前でした。午後九時半頃でしょうか。駅務室で、日報をまとめていらっしゃいました」
「その時、何か変わった様子はありましたか? 例えば、誰かと会う約束をしていたとか、普段と違うことをしていたとか」沢村が尋ねた。
森山は首をわずかに傾け、考えるように天井を見た。
「いいえ、特に。いつもと変わらず、淡々と業務をこなしていらっしゃいました。ただ……」彼女は言葉を一度区切り、再び膝の上の指先を擦り合わせた。「普段、駅長は閉駅後、すぐに駅務室の鍵を閉めて帰宅されるのですが、昨日は、少しばかり時間をかけていらっしゃったように見えました」
「時間をかけて、ですか? 具体的に、どのくらい?」鳴海が身を乗り出した。
「はっきりとは申し上げられませんが、いつもなら五分としないうちに施錠されるはずが、昨日は十分近く、あるいはそれ以上、室内にいらっしゃったように思います。私は休憩室で自分の持ち物を整理していましたので、正確な時間は確認していませんが、いつもより長く、駅務室の電気がついているのが見えました」
「何か、作業をされていたのでしょうか?」
「それは……分かりません。ただ、何かを探しているような、あるいは何かを片付けているような、そんな物音が、かすかに聞こえたような気がします」森山は曖昧な言い方だった。彼女の視線が再びテーブルの縁を辿る。
「物音、ですか。それはどのような?」
「ごく小さな、例えば、引き出しを開け閉めするような音、でしょうか。雷の音も激しかったので、はっきりとは」
鳴海は手帳に何かを書き留めた。沢村は視線を森山に向けたまま、じっと彼女の言葉を聞いている。
「駅長は、閉駅後、誰かと会う予定があったとか、何か特別な用事があったという話は聞いていませんか?」
森山はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、そのようなことは。駅長は、閉駅後はいつも、まっすぐご自宅へ帰られる方でしたから。それに、このような豪雨の中、わざわざ駅に残ってまで会うような相手がいるとは、考えにくいです」
「では、駅長が何か個人的な問題を抱えていたような様子は?」鳴海はさらに踏み込んだ。
森山の表情が、わずかに硬直したように見えた。彼女は膝の上で組んだ手をぎゅっと握りしめ、指の関節が白くなる。
「駅長は、私には多くを語る方ではありませんでした。ただ……時折、遠くを見つめるような、どこか寂しげな表情をされることがありました。特に、この夏椿駅の古い写真や、昔の資料を眺めている時などです」
「古い写真や資料、ですか。それは、どのような?」
「駅の開業当時のものや、三十年前の駅舎改築に関するものなどです。駅長は、この駅の歴史を非常に大切にしていらっしゃいましたから。しかし、それらを見つめる時の表情は、単なる懐かしさだけでは説明できないような、複雑なものだったように思います」
「複雑な、とは?」沢村が問い詰める。
森山は、口を開きかけたが、すぐに閉じた。そして、もう一度、指先を強く擦り合わせた。
「いえ……私の勝手な想像です。駅長が何を考えていらっしゃったのか、私には知る由もありません」彼女はそう言って、視線を落とした。その返答は、彼女が何かを知っているような、あるいは知っているが故に話せないような、そんな印象を与えた。
鳴海はしばらく森山を見つめていた。その沈黙は、休憩スペースの狭い空間に重くのしかかる。
「分かりました。貴重な証言、ありがとうございます。何か他に思い出されることがあれば、いつでも結構ですので、お聞かせください」
森山は小さく頷き、立ち上がった。その動作は、最初に入ってきた時と同じく、丁寧で落ち着いていた。しかし、彼女が戸を閉める寸前、一瞬だけ、その横顔に深い影が差したように見えた。
鳴海は森山が出ていくのを見届けてから、沢村に視線を向けた。
「駅長は、閉駅後、十数分、駅務室に留まっていた。しかも、何かを探すような物音。そして、古い資料や写真を見つめる時の『複雑な表情』か……」鳴海は手帳を閉じ、顎に手を当てた。「彼女は、何かを知っている。あるいは、知っていると思っている。だが、それを口にしたくない理由がある」
「はい。私もそう感じました。特に、古い資料の話になった時、明らかに動揺していましたね」沢村が同意した。
「駅長が、閉駅後のわずかな時間に、誰にも見られずに何かを隠したか、あるいは探し出したか……。密室トリックの解明にも関わるかもしれない」鳴海はそう呟くと、再び駅務室の方向をじっと見つめた。
「駅務室に残された資料を、もう一度詳しく調べてみよう。特に、三十年前の駅舎改築に関するものだ」
彼は立ち上がり、休憩スペースの戸へと向かった。