夏椿終着駅の待合室は、豪雨による閉塞感と、得体の知れない不安に満ちていた。最終列車の乗客たちは、それぞれが思い思いの場所で時間を潰している。鳴海悠人と沢村茜は、その喧騒の端で、静かに観察を続けていた。
「あの人、篠田麗子さんですよね。大手企業の社長さんとか」茜が小さな声で言った。
待合室の一角、窓から離れた席に、一際目を引く女性が座っていた。高級ブランドのスーツを完璧に着こなし、スマートフォンを手にしている。その視線は画面に固定されているようで、周囲の騒ぎには一切動じていない。
「ええ。駅長とは、駅の再開発計画を巡って意見が対立していたと聞きます」鳴海は手帳に目を落としたまま答えた。
二人は篠田麗子に近づいた。彼女は顔を上げ、一瞬、冷徹な眼差しを鳴海に向けたが、すぐにその表情を元に戻した。
「篠田様、少しお時間をいただけますでしょうか」鳴海が穏やかに尋ねた。
彼女はスマートフォンの画面をロックし、机に置いた。
「何でしょうか。このような状況で、お話することなど」声の調子は、低く抑えられていたが、明らかな拒絶の響きを含んでいた。
「鬼塚駅長との関係について、お伺いしたいことがあります」茜が単刀直入に切り出した。
篠田麗子は、ふっと鼻で笑った。
「関係、ですか。ビジネス上の関係以外に何があるというのでしょう。再開発計画を巡って、意見の相違は確かにありました。ですが、それはあくまで事業上の話です。個人的な感情のもつれなどではございません」
彼女はそう言いながら、一瞬、鳴海の目から視線を外し、左手の指先でジャケットの襟元をわずかに撫でた。その動きは、ごく自然で、意識しなければ見過ごしてしまうほど微細なものだった。
「ビジネス上の相違、ですか。しかし、昨晩、駅長室から激しい口論が聞こえたという証言もありますが」鳴海は冷静に続けた。
篠田麗子は眉をぴくりと動かした。
「激しい口論? それは、誇張でしょう。私どもは大人ですから、感情的に声を荒げるようなことはありません。冷静な議論を交わしていただけです」
彼女は再び、鳴海の目を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳に動揺の色はなかった。
その時、近くのベンチに座っていた橘浩一が、不意に咳払いをした。彼はくたびれたジャケットのポケットから取材ノートを取り出し、パラパラとページをめくり始めた。橘は、篠田麗子と鳴海たちの会話に耳を傾けているようには見えなかったが、その仕草はどこか不自然に映った。
茜は橘の方へ視線を向けた。橘は顔を伏せたまま、ノートのページをめくる速度を上げた。
「冷静な議論、ですか」茜が言った。「しかし、橘さんも昨晩、駅長室の近くにいらっしゃったと伺っています。何かお聞きになりませんでしたか?」
茜の問いかけに、橘はゆっくりと顔を上げた。少し猫背の彼は、疲れたような表情をしていた。
「ええ、まあ、近くにはいましたよ。資料の確認で。でも、特に何か、変わったことは……」
橘は言葉を濁し、再びノートに視線を落とした。彼の指が、ノートの端を軽く叩く。
篠田麗子は、橘の様子をちらりと見た。その冷徹な眼差しが、一瞬だけ、わずかに細められた。しかしそれはすぐに消え、再び無表情に戻った。
「そうですか。では、篠田様が駅長室を出られたのは何時頃でしたか?」鳴海が尋ねた。
篠田麗子はスマートフォンの画面を再びオンにし、時刻を確認した。
「十時半を少し回った頃だったかと記憶しています。その頃には、議論も終わり、私にはもう用はありませんでしたから」
彼女はそう答えたが、その視線はスマートフォンの画面に固定されたままだった。画面には、いくつかの未読メッセージが表示されている。彼女はそれらを確認することなく、電源ボタンを押して画面を消した。
茜は、篠田麗子の手元と、橘の指が叩くノートの端を交互に見た。