第31節
二重線と古い社章

夏椿終着駅の寂れた事務室で、鳴海は机に広げられた資料を再び見つめていた。沢村がその隣で、デジタルカメラで撮影した写真を確認する。室内は埃っぽく、窓の外ではまだ雨音が微かに響いていた。

「このリスト、やはり妙ですね」と沢村が言った。「鬼塚駅長が最後に処理したとされる乗客名簿です。最終列車の乗客は足止めされているはずなのに、何人かの名前が二重線で消されています」

鳴海は手にしていた万年筆のキャップをカチリと閉め、名簿に視線を移した。
「消されているのは、この駅で降りる予定だった客か、あるいは乗り換え予定だった客でしょう。足止めされている現状では、彼らの『到着』は一時停止していると考えるのが自然です」

「でも、わざわざ二重線で消す必要があったでしょうか? 単に備考欄に『足止め中』とでも書けばいいのに」
沢村は首を傾げた。その活発なショートヘアが揺れる。

「そうですね。まるで、彼らの存在が一時的に『無効』になったかのような処置だ。あるいは、鬼塚駅長が、この名簿を何らかの形で『最終確定』させようとしていた、とも取れます」

鳴海は名簿を指先でなぞった。その仕草は、彼が普段、原稿用紙の文字を追う時のものとよく似ている。
「この消し方に、何か意味が隠されているのかもしれませんが……。今は、まだ判断材料が足りません。重要なのは、彼がこの名簿を最後に手にしていたという事実です」

沢村は納得しきれない様子で、もう一度名簿の写真と実物を見比べた。二重線の引き方は、確かに几帳面で、まるで公的な手続きの一部であるかのようだった。しかし、その行為の真意は読み取れない。

「駅長は、この名簿に何か特別な意識を持っていたのでしょうか。それとも、ただの事務的な作業だったのか……」

「どちらにせよ、彼の行動には常に何らかの意図が伴っていたはずです」と鳴海は応じた。「この名簿は、彼が死の直前まで何に取り組んでいたかを示す、数少ない手がかりの一つです。さて、沢村さん、次の確認に移りましょう。駅長の私物に何か不審な点はありませんでしたか?」

沢村は少し躊躇する素振りを見せたものの、鳴海の言葉に促され、すぐに気持ちを切り替えた。彼女は手元のタブレットを操作し、別の写真を表示させた。
「私物については、ほとんどが整理されていました。ですが、一つだけ気になるものがあります。これです」

画面には、鬼塚駅長の机の引き出しから見つかった、古い鉄道会社の社章の写真が映し出された。錆びつき、色あせた真鍮製のそれは、確かに異様な存在感を放っていた。

「これは、以前にも確認しましたね。彼がかつて勤務していた鉄道会社のものだ、と森山さんが証言しています。しかし、鬼塚駅長がこの駅に赴任してからは、この会社の制服を着ることはなかったはずです」

「ええ。森山さんによると、駅長は『この社章は自分の誇りだ』と仰っていたそうです。しかし、普段身につけることはなく、大事に引き出しの奥にしまっていたと」

鳴海は、写真に写る社章の細部を凝視した。その表面には、微細な傷が幾つも刻まれている。長い年月を経てきた証拠だ。
「誇り、ですか。なるほど。しかし、なぜ今になって、それが改めて引き出しの中から見つかったのか。何か、過去を振り返るきっかけでもあったのでしょうか」

「そうかもしれません。事件の直前、駅長は篠田さんと駅の再開発計画について口論していました。その際に、古いしがらみのような話も出ていたと……」と沢村が付け加えた。

鳴海は静かに頷いた。彼の視線は、社章の裏側にまで及ぶ。しかし、写真からはそれ以上の情報は得られない。
「この社章そのものには、事件の直接的な手がかりはなさそうです。ただ、彼の『過去』が、今回の事件に深く関わっているという間接的な証拠にはなるでしょう」

「直接的な手がかり、ですか……」沢村は呟いた。彼女は社章の写真を拡大し、さらに細部を確認しようとする。その指が、画面上の社章の縁をなぞる。

鳴海は腕組みをしたまま、沈黙を守った。彼の頭の中では、これまでの証言と物証がパズルのピースのように組み合わされ、そして崩れていく。
「沢村さん。この社章が、本当に『誇り』の象徴だったのかどうか、もう一度森山さんに確認してもらうことは可能ですか?」

「はい、すぐに。彼女は今、休憩室にいますから」

「では、その間に、私はもう一度駅務室の状況を見てきます。特に、置き時計について、何か見落としがないか」

鳴海はそう言って、事務室を出て行った。沢村は、彼の背中を見送ってから、タブレットの画面を元の名簿に戻した。彼女は再び、二重線で消された名前の羅列を見つめる。何かが腑に落ちない。しかし、鳴海がすでに次の調査に移った以上、今ここで立ち止まるべきではない、と自分に言い聞かせた。彼女はタブレットを手に、休憩室へと向かった。その足取りは、わずかに急がれていた。駅長が最後に触れたであろう名簿の、その二重線の意味を深く問うことなく、彼女はその場を後にした。