待合室の片隅に置かれた木製の長椅子に、鳴海は背筋を伸ばして座っていた。向かいには、制服姿の森山恵美が、両手を膝の上に揃えて座っている。沢村は、彼女たちの少し離れた場所で、手帳に何かを書き付けていた。
「森山さん。鬼塚駅長は、この夏椿終着駅に、特別な思い入れがあったとお見受けしますが」
鳴海の声は静かだった。森山は小さく頷いた。
「ええ、それはもう。駅長は、この駅の全てでしたから」
彼女の声は、いつもの落ち着きを保っていた。その視線は、まっすぐに鳴海を見つめている。
「しかし、駅長は三十年前の駅建設にも関わっていたと聞きます。その頃から、何か変わったことはありませんでしたか?」
鳴海は、鬼塚駅長の過去に踏み込んだ。森山は、制服の胸元にある名札を指先でなぞった。その動きは、最初はごく自然に見えたが、鳴海の次の質問が投げかけられると、わずかに速さを増した。
「駅長は、その……私生活に関して、何か抱えていらっしゃいましたか?」
鳴海の問いに、森山は一瞬言葉を詰まらせた。「私生活、ですか……。いえ、特に。駅長は仕事一筋で、ご家庭のことはあまりお話しになりませんでしたから」
彼女の視線は、鳴海の顔からゆっくりと逸れ、待合室の隅に置かれた、埃を被った植木鉢へと移った。そして、そこからまた、窓の外の雨で霞む景色へと、落ち着かない様子で彷徨った。
「しかし、」沢村が口を挟んだ。「駅長は、三十年前の駅建設を巡る不正について、何か知っていたのでは、という話も耳にしました。そのことについて、駅長から何か聞かれたことは?」
森山の指は、名札から離れ、制服のポケットの縁をカリカリと掻いた。彼女の口元が、かすかに引きつった。「不正、ですか。はは……。そんな、まさか。駅長は、清廉潔白な方でしたよ。そんな噂、どこから?」彼女の言葉は、普段よりも明らかに早口になっていた。
沢村は森山の反応をじっと見ていたが、何も言わず、ただ手帳にペンを走らせた。
「その噂が真実かどうかはともかく、もし駅長が何か知っていたとしたら、森山さんなら、それに気づく機会があったのではないでしょうか」
鳴海は、さらに言葉を重ねた。森山は視線を再び鳴海に向けようとしたが、途中で逸らし、今度は自分の足元を見た。膝の上で組まれた指先が、わずかに震えている。
「……駅長は、誰にも言えないような秘密など、お持ちではなかったと信じています。私に、そんなことを打ち明けるはずがありません」
彼女はそう言い切ったが、その声には、以前のような確信がなかった。言葉の端々に、微かな震えが混じっている。
「何か、駅長がこっそりと調べていたこと、あるいは、いつもと違う行動は?」
鳴海は問い詰めるように尋ねた。森山は顔を上げ、もう一度、無理に笑顔を作ろうとした。
「さあ……。いつも通りでしたよ。毎日、同じ時間に駅に来て、同じように巡回して。駅長室にこもる時間が増えた、とか、そういうこともありませんでした」
しかし、彼女の視線は、再び待合室の床を漂い、落ち着かない。言葉の速さは、依然として普段より早いままだった。彼女は、膝の上で組んだ指を、今度はぎゅっと握りしめた。その指の関節が、白くなっている。
「では、藤崎さんとは、駅長はどのような関係でしたか?」
鳴海は唐突に、別の人物の名前を出した。森山の体が、わずかに強張る。
「藤崎さん、ですか。ええと……、元同僚、ですよね。三十年前に、一緒に駅建設に関わっていたという……」
彼女の言葉は、そこで途切れた。その視線は、待合室の柱の陰へと向けられ、まるでそこに誰かが立っているかのように、しばらく固定された。
「駅長は、藤崎さんのことをどう思っていたのでしょう?」
沢村が、森山の様子を見ながら、低い声で尋ねた。森山は柱の陰から視線を外し、ゆっくりと首を横に振った。
「さあ……。昔のことですから。特に、何かお話しになることはありませんでした」
彼女はそう言って、深く息を吐いた。その吐息は、微かに震えていた。鳴海は、森山のその反応から、何かを読み取ろうとするかのように、じっと彼女を見つめ続けた。森山は、その視線に耐えかねたように、再び窓の外へ目を向けた。雨脚は、まだ衰えていなかった。