沢村は、駅務室の重い扉を背にし、大きく息を吐き出した。冷え切った室内から、湿気を帯びた外の空気が肺を満たす。雨上がりの土と草の匂いがした。彼女はショートヘアを軽く揺らし、濡れた石畳に視線を落とす。
鳴海は、かけていた眼鏡を外し、丁寧にクロスで拭った。その手の動きには、いつもの沈着さが宿っている。彼はジャケットの袖口をさりげなく整えた。
二人が立っているのは、雨に濡れたホームだった。先ほどまでの猛烈な雨は、今はしとしとと降る霧雨に変わっていたが、地面はまだ水たまりを湛えている。遠くで、弱々しい雷鳴が一度、二度と響いた。
線路の向こうには、黒々とした山肌が迫っている。土砂崩れで寸断された箇所は、この場所からは直接見えない。だが、その事実が、この駅を完全に外界から切り離していることを物語っていた。
「外に出ると、少しは頭が冷えますね」
沢村は、凍えた指先を擦り合わせながら尋ねた。
「ええ。閉鎖された空間に長くいると、思考もまた囚われがちになります」
鳴海は、拭き終えた眼鏡をかけ直し、ゆっくりと視線を巡らせた。
停車したままの最終列車は、夜の帳の中、巨大な鉄の塊となって横たわっている。真鍮の手すりは濡れて鈍く光り、煤けた車体には雨粒が細かく付着していた。車窓の灯りは、ちらほらと点いているものの、それもまた、この寂れた終着駅の静寂を際立たせるだけだった。轟音に包まれていたはずのエンジン音は完全に止み、今はただ、雨音と、水滴が落ちる微かな音だけが耳に届く。その沈黙は、妙に重かった。
沢村は、ホームの端に目をやった。そこから先は、闇が深い。
「本当に、誰もここから出られないんですね」
彼女の声は、少し沈んでいた。動きやすい服装の裾を払い、濡れていないベンチの端に腰を下ろす。
駅舎の古びた時計台が、闇の中にぼんやりと浮かんでいる。その文字盤は、雨に滲み、遠目には正確な時刻を読み取ることはできなかった。針は、確かに動いているように見えた。
「あの時計も、もう誰も気に留めていないのでしょうね」
沢村が独りごとのように呟いた。
鳴海は、時計台を見上げた。
「時間そのものが、この駅では意味を失ったかのようです」
鳴海はそう言った。沢村は小さく頷いた。視線を再び、停車した列車へと向けた。
「この中にいる人たちも、みんな、不安でいっぱいでしょうね。特に、容疑者候補にされてる人たちは……」
彼女は言葉を濁し、口を噤んだ。
鳴海は、腕組みをしたまま、沈黙を守った。その視線は、遠く、暗い山の稜線へと向けられている。雨の匂い、土の匂いが混じり合う。湿った空気が、肌にまとわりつく。駅舎の壁のペンキは剥がれ、湿った木材が黒ずんでいる。
沢村は、デジタルカメラを手に取り、無意識にシャッターを切った。液晶には、何も写っていない暗闇と、僅かな水滴のきらめきが映し出される。
「私たちも、この雨が止むのを待つしかないんでしょうか」
「いいえ」
鳴海は、静かに言った。その声は、霧雨の中に吸い込まれることなく、はっきりと響いた。
「止まるわけにはいきません。雨が止んでも、この駅は動き出さない。そして、あの駅務室で起きたことも、自然に解決するわけではない」
彼は視線を駅務室の方向へと戻した。
「少なくとも、あの部屋の仕掛けは、まだ完全には解き明かされていません」
沢村は、ハッと顔を上げた。その活発なショートヘアが、少し乱れている。
「仕掛け、ですか」
「ええ。完璧な密室。その裏には、必ず何らかの意図と、それを実現するための巧妙な仕掛けが存在します」
鳴海の言葉には、確固たる響きがあった。
沢村は、カメラを下ろし、立ち上がった。雨は再び、わずかに強まり始めていた。
「では、私たちは、次は何を?」
鳴海は、駅舎の入り口から少し離れた場所、駅の裏手へと続く薄暗い通路の入り口へと視線を向けた。
「あの部屋に戻る前に、もう少し、この外の状況を確認しておきましょう。特に、駅長が普段利用していたであろう通路や、裏口の様子を」
沢村は頷き、鳴海の隣に並んだ。湿った風が、二人の頬を撫でる。彼らは、暗闇へと続く通路へと足を踏み出した。