待合室の隅に置かれた、年季の入った木製ベンチに藤崎悟は座っていた。その深い皺が刻まれた顔は、照明のせいか、一段と影を深くしているように見える。鳴海悠人はその正面に、沢村茜は少し離れた横に腰を下ろした。
「藤崎さん、もう一度確認させてください」鳴海は静かに切り出した。「三十年前、夏椿終着駅の建設に携わっていた頃のお話です。当時、鬼塚駅長との間に、何か特別な、あるいは解決していない問題はありましたか?」
藤崎は、両肘を膝に置き、組んだ指先を見つめるようにしてしばらく沈黙した。年季の入った作業着の肩が、わずかに上下する。
「特別な問題、ねぇ」
ようやく絞り出した声は、低く、擦れていた。
「あんた方が何を知ってるのか知らねぇが、俺は、あの時の不正を告発した。それが全てだ。解決してないのは、俺の気持ちだけだ」
沢村は手元のノートにペンを走らせる。その視線は藤崎の硬い横顔に注がれていた。
鳴海は眼鏡のブリッジに指をかけ、わずかに押し上げた。その動きは滑らかで、ほとんど気づかれないほどだった。
「その不正とは、具体的にはどのようなものだったのでしょう? 鬼塚駅長は、その中心にいたと?」
藤崎はゆっくりと顔を上げた。深い皺の刻まれた目元が、鳴海を捉える。
「金と、人だ。駅の建設費が、どこかに消えた。そして、それに異を唱えた奴が……」
彼はそこで言葉を詰まらせ、再び指先に目を落とした。
鳴海は、それまで座っていたベンチから、ゆっくりと、しかし確実に藤崎の方へと半歩体を寄せた。両肘を膝に置く藤崎の姿勢に合わせるように、自身の体もわずかに前傾する。知的な眼鏡の奥の瞳が、藤崎の顔を真っ直ぐに射抜くように見据えた。彼の声は、先ほどよりも一段と低く、しかし明確な響きを帯びていた。
「その『消えた』金の話は、鬼塚駅長が亡くなった今、再び動き出す可能性があった。そうではありませんか?」
藤崎は一瞬、息をのんだように見えた。彼の目が、鳴海の視線から逃れるように、待合室の天井を彷徨う。
「そんなことは……俺には関係ない」藤崎はぶっきらぼうに言った。「俺はもう、あの件からは手を引いている」
「本当に、関係ないのでしょうか?」鳴海の低い声が、藤崎の耳元に直接届くかのように響く。その視線は、藤崎の動揺をわずかに捉えて離さない。
「事件の夜、あなたは駅構内で列車のエンジン音が普段と違う、と証言しました。あの雷雨の轟音の中、よく聞き分けられましたね」
藤崎は、鳴海の視線から逃れるように、顔をわずかに横に逸らした。
「……長年、鉄道に携わってきた人間なら、あの音の違いはわかる。特にあの機関車は、少し癖がある」
「なるほど。そして、あの夜、駅務室の置き時計が数分進んでいたことについては、どう思われますか? 鬼塚駅長は、時間に正確な方だったと聞きます」鳴海は問い詰めるような調子ではなく、淡々とした口調で続けた。しかし、その声のトーンは変わらず低く、圧力をかけ続けている。
藤崎は答えない。ただ、深い皺の刻まれた眉根が、わずかに寄せられた。彼の口元が何かを言いかけては閉じ、再び開く。
「……あの人は、昔から、そういう、細かいところを気にする性分だった」
彼は、まるで自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「だが、時間をいじるような真似は、しなかったはずだ」
沢村は、藤崎の言葉の端々に含まれる微かな揺らぎを見逃さなかった。彼女はそっとペンを置き、デジタルカメラを手に取った。
鳴海は、藤崎のわずかな反応を読み取るように、さらに視線を深くした。
「もし、あの時計が意図的に進められていたとしたら、誰が、何のために、そうしたと想像できますか?」
藤崎は、鳴海の問いに直接答えようとはしなかった。彼の視線は、待合室の窓の外、激しい雨に打たれるプラットホームへと向けられた。まるで、過去の光景がその雨の中に現れるのを待っているかのように。
「……さあな。そんなこと、俺に聞かれても困る」
その声は、苛立ちと諦めが入り混じったような響きを帯びていた。
鳴海は、藤崎のその言葉の背後にある、言葉にならない何かを探るように、静かに藤崎を見つめ続けた。