第02節
孤立した終着駅

夏椿終着駅の待合室は、湿った空気が澱んでいた。外は豪雨。土砂降りの雨粒が、大きな窓ガラスを叩きつける。時折、遠雷が地鳴りのように響き、古い木造の駅舎を微かに震わせた。最終列車でここまで来た乗客たちは、皆、途方に暮れた顔で座席に身を沈めている。携帯電話の電波は、この山間部では完全に途絶していた。

鳴海悠人は、窓辺に立ち、傘を伝って流れ落ちる雨水を静かに見つめていた。その知的な眼鏡の奥の眼差しは、ただ景色を眺めているだけではない。視線は、雨に煙る向こうの山並みから、駅のホーム、そして線路の先が土砂崩れで寸断されているであろう一点へと、ゆっくりと移動する。彼が着ていた落ち着いた色のジャケットは、旅慣れた者の身軽さを感じさせた。左手には、常に持ち歩く黒革の手帳が握られている。

「鳴海さん、見てくださいよ。本当に通信が全部ダメですね」

背後から声がした。振り返ると、沢村茜が片手にスマートフォンを掲げている。彼女の活発なショートヘアは、先ほど外の様子を見に行った際に少し濡れたのか、額に張り付いていた。動きやすいジーンズにパーカーという服装は、いかにもフットワークの軽い編集者らしい。肩からは、使い慣れたデジタルカメラが提げられている。

鳴海は手帳を開き、鉛筆で何かを書きつけていた手を止めた。
 「やはりそうですか。予想通りですが、改めて確認すると心細いものですね」

茜は小さくため息をつき、鳴海の隣に並んだ。
 「この状況じゃ、取材先にも連絡できません。まさか、こんな山奥の終着駅で足止めされるなんて。鳴海さん、締め切りは大丈夫ですか?」

鳴海は眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
 「ええ。むしろ、この孤立した状況は、何かしらのインスピレーションを与えてくれるかもしれません。普段の日常では見過ごしてしまうような、人間の本質が垣間見えることも」

「なるほど。作家さんらしい発想ですね」茜は苦笑した。「でも、私は早く東京に戻って、印刷所と調整したいんですけど」

駅舎の奥から、くたびれたジャケットを羽織った男が、濡れた髪をかき上げながら戻ってきた。フリーライターの橘浩一だ。彼はスマートフォンをポケットにしまいながら、不満げな表情で首を振る。
 「やっぱりどこも繋がらないな。駅長も無線で連絡を試みてるみたいだけど、どうなることやら」

その言葉に、鳴海は橘の方へ視線を向けた。
 「駅長はどちらに?」
 「駅務室にこもってるよ。さっき、駅の再開発の件で揉めてたらしい大手企業の篠田って女性も、駅長室に呼ばれてたな。何か話があるみたいだった」橘は顎をしゃくった。

茜はすかさずデジタルカメラを構え、窓の外の荒れ狂う雨を写した。シャッター音が、静まり返った待合室に響く。
 「駅長さん、大変でしょうね。この駅の責任者ですもん」

鳴海は手帳に視線を落とし、書きかけのページに目をやった。そこには、この駅に閉じ込められた人々の顔ぶれが、箇条書きで記されている。そして、その横には、駅長室の配置図らしき簡単なスケッチが走り書きされていた。

「この豪雨がいつ止むか、ですね」鳴海が呟いた。

茜はカメラを下ろし、鳴海の手帳を覗き込んだ。
 「鳴海さん、もうそんなこと書いてるんですか? もしかして、この状況をもう物語にしようとしてます?」

鳴海は答えず、ただ静かに手帳を閉じた。その薄い唇の端が、微かに持ち上がる。外の雷鳴が、再び轟いた。