駅務室の空気は、前日よりも重さを増していた。昨夜の雷雨が洗い流したはずの埃が、微かに舞っているように見える。鳴海は、机の上に置かれたままの置き時計に視線を向けた。真鍮製の古めかしいそれは、短針が四を、長針が十二を指したまま、ぴたりと動きを止めている。
沢村は、鳴海の隣で手帳を開いていた。
「駅長が倒れていたのは、この時計のすぐそばでしたよね」
鳴海は答えず、時計の文字盤を凝視する。指紋採取班が去った後も、そこには何かしらの痕跡が残されているような、静かな圧があった。彼は、自分の腕にはめた腕時計に目を落とす。正確に午後三時十五分を示していた。
「この時計、普段から動いていたんでしょうか」
沢村が尋ねた。
鳴海は無言で、ゆっくりと置き時計に手を伸ばした。しかし、触れる寸前で動きを止め、指先をわずかに宙に浮かせる。彼は時計の背面を覗き込むように身をかがめた。電池式のようには見えない。ゼンマイ式だろうか。だが、それを確かめる動作には移らなかった。彼はただ、文字盤と針の配置を脳裏に焼き付けるかのように、じっと見つめ続ける。
そこへ、森山恵美が顔を覗かせた。
「何か、お分かりになりましたか?」
彼女はきちんとした制服姿で、いつもと変わらぬ落ち着いた表情をしている。
「森山さん、この時計について何かご存知ですか?」
沢村が尋ねた。
森山は少し眉を下げた。
「ええ、あれは鬼塚駅長が長年愛用されていたものです。もう三十年以上も前から、この部屋にありました。少し進み癖がある、とはよく仰っていましたが……」
「進み癖、ですか」
鳴海が低い声で繰り返した。彼の視線は、再び置き時計に戻っていた。
「確か、二、三分ほど進んでいたはずです。駅長は、それを承知で使っていらしたと……」
森山は言葉を続ける。
「そういえば、以前、駅長が『少しでも早く着いた気分になれるだろう』と冗談めかして……」
沢村が何かを閃いたように口を開きかけた、その時だった。
「森山さん、駅長が倒れていた時の状況を、もう少し詳しく聞かせてもらえますか」
鳴海が、唐突に話を遮った。彼の目は、置き時計から離れ、森山の顔を捉えていた。
沢村は、言いかけた言葉を飲み込み、森山の方へ視線を移した。森山は、一瞬戸惑ったように目を瞬かせたが、すぐに「はい」と答えた。
「発見したのは私ですので。あの時、私は……」
森山は、視線を床に落とし、昨夜の出来事を語り始めた。彼女の声は、平静を装ってはいるものの、わずかに震えているように聞こえた。
鳴海は、森山の証言に耳を傾けながら、時折、壁に掛けられたカレンダーや、机の上の書類の束に目をやった。彼の落ち着いた服装の袖口から覗く腕時計は、森山の証言する時刻と、置き時計の指し示す時刻との間を、無言で繋いでいるようだった。沢村は、森山の話を手帳に書き留めながら、ちらりと鳴海の方を見た。鳴海の知的眼鏡の奥の瞳は、まるで遠い一点を見据えているかのように、静かに動いていた。
森山は、発見時の詳細を語り終えると、深く息を吐いた。
「……それで、私はすぐに、皆さんに連絡しました」
「ありがとうございます。助かります」
鳴海は森山にそう告げ、再び視線を部屋の中に戻した。彼の視線は、置き時計に一度留まったものの、すぐに部屋の隅に置かれた古びた棚へと移った。棚には、埃を被った古い備品や、何冊かの分厚いファイルが並んでいる。
沢村は、鳴海の意図を測りかねながら、森山に言った。
「森山さん、お忙しいところ申し訳ありませんが、もう少しお時間をいただけますか。この部屋の配置や、普段の駅長のご様子について、いくつか確認したいことがありまして」
森山は、小さく頷いた。「ええ、もちろんです」
鳴海は、棚のファイルに手を伸ばした。指先で背表紙をなぞる。彼の行動は、置き時計の「進み癖」という情報が、彼の頭の中で、まだ決定的な意味を帯びていないことを示唆しているようにも見えた。彼はその情報を、ただ事実の一つとして受け入れただけで、その裏にある可能性を深掘りする段階には至っていない。あるいは、もっと大きな全体像の一部として捉えようとしているのかもしれない。
彼は棚から一番手前のファイルを引き抜き、埃を払った。表紙には色褪せた文字で「夏椿終着駅 業務日報 昭和XX年」と書かれている。それは、被害者である鬼塚駅長が長年勤めてきた駅の、歴史の一端を記したものだった。ずっしりとした重みが、その歳月を物語る。ファイルを開く前に、鳴海は一度、置き時計の方を振り返った。真鍮の鈍い輝きは、まるで何かを語りかけているかのようにも見えたが、彼はただ一瞥しただけで、再びファイルに視線を戻し、分厚い表紙をゆっくりと開いた。
沢村の心の中で、小さな疑問がさざ波のように広がる。あの数分の誤差は、本当にただの「進み癖」だったのだろうか。しかし鳴海は今、過去の記録の中へと深く潜り込もうとしている。彼の思考は、既に置き時計から離れ、別の道筋を辿り始めていた。