第16節
止まった時間

駅務室の重苦しい空気は、外の雷鳴が遠ざかってもなお、肌にまとわりつくようだった。窓の外は、雨上がりの湿った夜の帳が降り、街灯の光が水たまりにぼんやりと反射している。鳴海悠人は、再び机の前に立っていた。鬼塚駅長の遺体は既に運び出され、血の痕跡も拭い去られていたが、そこには確かに、つい数時間前まで人が生きていた気配が、薄い埃の層のように残っていた。消毒液の微かな匂いが、古い紙とインクの匂いに混じって鼻腔をくすぐる。

彼は机の隅に置かれた真鍮製の置き時計に視線を落とした。ずっしりとした重みが感じられるような、古びた金属の塊。文字盤は象牙色に焼け、細やかなアラビア数字が刻まれている。表面のガラスは丁寧に磨き上げられているが、その奥で時を刻むはずの機械は沈黙し、鈍い光を放つ長針と短針は、午後七時二十分を指してぴたりと止まっていた。それが、鬼塚駅長が絶命した時刻とされている。鳴海は、その時計の表面に自分の顔がぼんやりと映り込むのを見た。彼の表情は、硬く、ほとんど動かない。

「鳴海さん、何か気になることでも?」

沢村茜の声が、背後から聞こえた。彼女は部屋の隅で、棚に並んだ古い書類の背表紙を目で追っていた。指先が、埃を被ったファイルの一冊に触れ、微かに震える。彼女の視線は、部屋の中央に立つ鳴海の背中に向けられた。その声には、わずかな緊張と、しかし確かな気遣いが滲んでいた。彼女の足元で、床板が小さく軋む音がした。

鳴海は何も答えず、自身の左手首に巻かれた腕時計に目をやった。チタン製のケースに収められたデジタル表示は、午後八時きっかりを示している。秒針が音もなく進むその正確な動きは、目の前の止まった置き時計とはあまりにも対照的だった。彼はそれを置き時計の止まった時刻と見比べた。一度、二度と、視線を往復させる。それから、もう一度、自分の腕時計を確認する。彼の動きはごく自然で、しかしその視線には微かな引っかかりがあった。まるで、二つの時間が互いに反発し合っているかのような、奇妙な違和感。彼はゆっくりと息を吐き出した。

「この時計、どう思いますか」

鳴海は静かに尋ねた。声のトーンは普段と変わらないが、言葉の一つ一つを確かめるように、わずかに間を置いて発せられた。彼の視線は、依然として置き時計に固定されたままだ。その真鍮の表面に映る、歪んだ自分の顔をじっと見つめている。

沢村は彼の傍らに歩み寄り、置き時計を覗き込んだ。彼女の足音が、静かな部屋に小さく響く。彼女の視線は、まず鳴海の横顔を捉え、それからゆっくりと、彼が見つめる置き時計へと移った。
「午後七時二十分。駅長が亡くなった時間ですよね。雷の衝撃で止まったんでしょうか」
 彼女はそう言いながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。画面のロックを解除し、時間を確認する。液晶画面の明るい光が、彼女の顔を青白く照らした。午後八時ちょうど。その瞬間、彼女の足元が、わずかに床を擦る音を立てた。彼女の眉間に、微かな皺が寄る。

鳴海は置き時計から目を離さず、ゆっくりと首を横に振った。その動きは、まるで重い鎖に繋がれているかのようだった。
「雷の影響なら、他の電化製品にも何か影響があったはずです。しかし、室内の照明は正常に作動していましたし、駅のシステムにも異常は報告されていません」
 彼は、部屋の天井に設置された蛍光灯を見上げた。その光は、何事もなかったかのように、均一に室内を照らしている。壁に掛けられた古い扇風機も、電源を入れれば問題なく動くだろう。

「では、何でしょう? 駅長が自分で時間を合わせたとか…」
 沢村の言葉が、なぜか途中で少し早口になり、そして最後は尻すぼみになった。彼女は、自分の提案が的外れであることに、言葉を発しながら気づいたようだった。駅長が死の直前に時計を合わせるなど、状況として不自然すぎる。彼女はもう一度、置き時計の針を凝視した。自分のスマートフォンと、鳴海の腕時計、そしてこの止まった置き時計。三つの時間が、それぞれ異なる意味を帯びているように感じられた。その針の先が、まるで何かを指し示しているかのように思えて、彼女はごくりと唾を飲み込んだ。

「この時計は、本来、正確な時刻よりも数分進んでいたそうです」
 鳴海は、まるで独り言のように呟いた。その声は、部屋の静寂に吸い込まれていくようだった。彼の指先が、置き時計の真鍮の縁を、ごくわずかに撫でる。
「駅員の方の話では、鬼塚駅長は時間をきっちり守る方で、常にこの置き時計を数分進めていた、と」
 彼の言葉は、淡々としていたが、その内容は沢村の心に鋭く突き刺さった。

沢村は眉を寄せた。彼女の視線が、置き時計の文字盤と、鳴海の顔の間を忙しなく往復する。
「数分進めていた…? ということは、この七時二十分という時刻は、実際には七時十七、八分だったということですか?」
 彼女は、自分の頭の中で、止まった針を数分巻き戻すような仕草をした。その指先が、宙を彷徨う。もしそうだとすれば、この「死の時刻」は、我々が認識しているものとは違う。

鳴海は答えない。ただ、止まった置き時計の文字盤を、じっと見つめていた。彼の視線は、その真鍮の表面に映る、ごくわずかな歪みを捉えているかのようだった。その歪みが、まるで時間の流れそのものが捻じ曲げられたかのような錯覚を彼に与える。駅務室には、再び沈黙が降りた。外では、遠くで再び雷鳴が轟いたが、それはもう、彼らの間に生まれた小さな違和感を覆い隠すほどには響かなかった。むしろ、その雷鳴は、彼らの心に渦巻く疑問を、一層深く、暗いものへと変えていくかのようだった。鳴海は、ゆっくりと置き時計から目を離し、沢村の顔を見上げた。その瞳の奥には、確かな探求の光が宿っていた。