駅務室は、先ほどまでの騒然とした空気から一転し、重苦しい静寂に包まれていた。鬼塚駅長の遺体が運び出された後も、張り詰めた緊張感が壁の染み込んだように残っている。鳴海悠人は、窓辺に立ち、閉められたままの窓枠を丹念に調べていた。沢村茜は、その背後でデジタルカメラのレンズを拭きながら、彼の次の動きを待っている。
「窓の鍵は、内側からしっかりかかっていますね」
沢村が、確認するように呟いた。
鳴海は無言で頷くと、指先で窓枠の木目をなぞる。雨戸は閉ざされ、外の光はほとんど届かない。室内は天井の蛍光灯が白々と照らすのみだった。
彼は、鍵の周辺に視線を固定した。古い真鍮製のクレセント錠は、長年の使用で表面が摩耗し、鈍い光を放っている。その鍵穴の縁に、鳴海はわずかな違和感を覚えた。
「沢村さん」
鳴海の声は低く、しかし明確だった。
沢村はすぐにカメラを構え直し、彼の視線の先を追う。
「何か、ありましたか?」
「ここです」
鳴海は、クレセント錠の鍵穴の、ごく小さな隙間を指差した。その隙間は、普段なら気にも留めないような、本当に微細なものだった。
沢村が顔を近づけて目を凝らす。
「ええと……傷、でしょうか?」
鍵穴の真鍮部分に、髪の毛ほどの細い線が、浅く刻まれている。しかし、それは単なる経年劣化による傷とは少し異なっていた。不自然な、引っ掻いたような痕跡。
鳴海は、懐から小さなペンライトを取り出すと、その一点に光を集中させた。光の輪の中で、傷の奥に何か微かに光るものが見えた。
それは、金属の光沢だった。
鳴海は、ポケットからピンセットを取り出すと、慎重にその光る点に狙いを定めた。彼の指先が、わずかに震えているように見えたのは、集中しすぎているせいだろうか。
ピンセットの先端が、鍵穴の奥に触れる。カツン、と小さく硬質な音が響いた。
そして、ゆっくりと引き抜かれた。
ピンセットの先に挟まれていたのは、ごく小さな、長さ一センチにも満たない金属片だった。それは細い針金のような形をしており、片側が鋭利な角度で折れ曲がっている。蛍光灯の光を浴びて、鈍く銀色にきらりと反射した。
鳴海はそれを掌に乗せ、もう一方の指でそっと触れた。ひんやりとした金属特有の硬質な手触りが、彼の指に伝わる。表面は滑らかだが、一部にわずかなざらつきがあった。
沢村が息を呑んだ。
「これは……何でしょう?」
鳴海は、金属片をまじまじと見つめたまま、答えない。彼の視線は、その小さな物体に吸い寄せられているかのようだった。
「こんなものが、鍵穴の中に?」
沢村は、カメラのシャッターを切った。金属片のあらゆる角度から、何枚も写真を撮っていく。
鳴海は、その金属片を再びピンセットで挟むと、窓のクレセント錠の鍵穴に、もう一度当ててみた。金属片の曲がった先端が、鍵穴の奥にわずかに届く。だが、それだけでは鍵を操作できるとは思えない。
彼は、金属片を掌に戻すと、今度は窓枠とクレセント錠の間の、ごくわずかな隙間を目で追った。窓が完全に閉まりきっていないのではないか、という疑念が頭をよぎったのかもしれない。
「沢村さん、この窓の立て付け、少しだけおかしいと思いませんか」
鳴海が、窓枠を軽く叩いた。
沢村は、急いで窓に近づき、鳴海の指が示す場所を見る。
「言われてみれば、確かに……隙間があるような、ないような……」
彼女は指先で、窓枠とサッシの境目をなぞった。風雨に晒された木材は、わずかに歪んでいるようにも見える。
鳴海は、その隙間に目を凝らした。
「この隙間から、何かを差し込んで、鍵を操作した可能性があります」
彼が言うと、沢村は驚いたように目を見開いた。
「でも、こんな小さな金属片で、ですか? それに、鍵は内側からかかっていましたよね?」
「ええ。だからこそ、興味深い」
鳴海は、再び掌の金属片に視線を落とした。
「こんなに細いもので、果たして鍵が動かせたのか。それとも、別の役割があったのか」
彼は金属片を小さな透明な袋に入れ、丁寧に封をした。
「この傷と、この金属片。そして、内側からかかっていた鍵。これらは、密室の謎を解くための、重要な手がかりになるかもしれません」
鳴海はそう言うと、今度は窓の反対側、壁際にある小さな棚に目を向けた。その棚には、駅長が普段使っていたであろう事務用品が雑然と置かれている。使い古されたゴム印、インク壺、そして、古びた鉄道雑誌の束。
彼の視線は、その雑誌の間に挟まれた、一枚の古い写真で止まった。セピア色の写真には、若き日の鬼塚駅長と、見慣れない制服を着た数人の男たちが、笑顔で写っていた。背景には、建設中の夏椿終着駅の骨組みが見える。
鳴海は、その写真を手に取った。写真の裏には、達筆な文字で日付と数人の名前が記されている。
「これは……」
沢村が、写真に写る若い鬼塚駅長の顔を見て、声を上げた。
「三十年前の、駅の建設時の写真ですね」
鳴海は、写真の裏に書かれた文字を指でなぞった。
「この中に、何か隠されているのでしょうか」
彼は写真を丁寧に透明なファイルに入れた。
「この二つが、私たちを真実へと導くかもしれません」
彼の言葉は静かだったが、その瞳の奥には、確かな光が宿っていた。