第10節
窓の傷跡

駅務室の空気は、まだ重苦しいままだ。激しい雷雨は幾分か小康を得たものの、遠くで響く雷鳴は、閉ざされた空間の不安を掻き立てる。鳴海は、机に突っ伏した鬼塚駅長の遺体から視線を外し、部屋全体をゆっくりと見回していた。その視線は、内側から施錠されたドア、そして閉め切られた窓へと移動する。

沢村茜はデジタルカメラを構え、室内の隅々までを記録していた。彼女のレンズは、散乱する書類、止まったままの置き時計、そして壁にかけられた古びた鉄道会社のカレンダーを捉えていく。やがて、彼女の目は窓へと向かった。外はまだ雨粒がガラスを叩きつけている。しかし、その向こうに広がるはずの駅構内の風景は、白い靄に包まれていた。

茜は窓枠に沿ってカメラを動かした。その視線が、ふと、ガラスの表面を捉える。そこには、小さな引っ掻き傷のようなものがついていた。それは、何かが擦れたような細い線で、ちょうど窓の鍵が閉まる部分の少し上、ガラスと木製の枠が接するあたりに、不自然な形で横切っている。

茜は、レンズ越しにその傷を凝視した。まるで何かの道具を無理に差し込んだかのような、あるいは鋭利なもので削ったかのような跡だ。彼女の指が、無意識のうちにカメラのシャッターボタンから離れ、宙でぴたりと止まる。そして、次の瞬間、彼女は小さく息を止めた。その傷は、決して大きくはなかったが、ガラスの内側ではなく、どう見ても外側からつけられたように見えたのだ。

鳴海が、茜の動きに気づいたのか、無言で彼女の隣に立つ。
「何か見つかりましたか?」と、彼は声を出さずに尋ねるように、視線で促した。
茜は、言葉を選びながらゆっくりとカメラを下ろした。
「この窓の傷、気になります」
彼女は指先で、ガラスの表面の引っ掻き傷を指し示した。
「外から、何かでこじ開けようとしたような…」
鳴海は、茜が指し示す場所をじっと見つめた。彼の表情は変わらない。彼はそのまま、窓の鍵の方に目を移し、軽く指先で触れてから、また茜が指摘した傷へと視線を戻した。
「確かに、不自然な痕跡ですね」
彼の言葉は、その傷が何であるかについて、何の結論も示さなかった。

茜は、窓のすぐ下にある書類棚に目を移した。棚には、古い時刻表の束や、錆びた文房具が雑然と置かれている。その奥に、黒ずんだ木製の箱が見えた。箱の蓋は半開きで、中には使われなくなった備品が詰め込まれているようだった。その箱の側面には、古びた鉄道会社のロゴが焼印されていた。

彼女は、もう一度、窓の傷を見た。外からの侵入。密室の謎に対する、最も直接的な解答のように思えた。しかし、内鍵は確かに閉まっていた。そして、鍵の周囲には、茜が指摘したような大きな傷は見当たらない。矛盾が、まだ彼女の頭の中で明確な像を結ばない。

鳴海は、再び部屋の中央に戻り、鬼塚駅長の遺体を改めて見下ろした。その手元に置かれた置き時計は、やはり止まったままだった。彼は数秒間、その時計を凝視した後、ゆっくりと遺体から離れる。
「この部屋には、他に何があったのか。鬼塚駅長は、最後に何をしていたのか」
鳴海は独り言のように呟いた。その声は、静かな部屋に響き、茜の思考を現実に引き戻す。
「駅長は、この部屋で一人だったのでしょうか」茜が尋ねた。
「その可能性が高いでしょうね。この時間帯に、駅務室に出入りする者は限られています」
鳴海は、部屋の隅に置かれた小さなゴミ箱に目をやった。中には、丸められたレシートと、使い捨てのコーヒーカップが捨てられていた。彼はゴミ箱の中を少し漁り、レシートを取り出して広げた。それは昨日の日付のコンビニエンスストアのレシートで、缶コーヒーとサンドイッチの購入記録が印字されていた。

茜は、再びカメラを構え、窓の傷をもう一度撮影した。ズームで寄っても、その傷が何によってつけられたかは判然としない。だが、その不自然な線が、彼女の脳裏に焼き付いたことは確かだった。密室の謎を解く鍵なのか、あるいは単なる偶然の痕跡なのか。彼女の心は、まだその答えを見つけられずにいたが、この傷が示す「外からの力」という可能性は、彼女の思考の中心に居座り続けていた。