第09節
所長の遺した土地の秘密

橘は、氷室と共に潮風診療所の待合室にいた。昨夜の嵐は去り、窓からはうっすらと陽が差し込んでいるが、室内の空気は重い。神崎所長の死がもたらした動揺は、まだ診療所全体を覆っていた。

「所長がいなくなって、この診療所がどうなるのか。それが一番気がかりです」

東野悟は、待合室の隅にある椅子に座り、膝の上でスマートフォンを指先で弄んでいた。彼の白衣は、事件の混乱にもかかわらず、ぴたりと糊が利いて清潔感を保っている。その口元には薄い笑みが浮かんでいたが、視線は氷室を捉えたまま、微動だにしなかった。

「神崎所長は、この島にとってかけがえのない存在でしたから」

早乙女葵が、事務室から持ってきたらしい書類の束を抱え直しながら言った。彼女の制服もまた、きちんと手入れが行き届いている。背筋を伸ばしたその姿勢からは、職務に対する真面目さが伝わってくる。しかし、質問に答える際、一瞬だけ伏せられた目元に、どこか諦めのような気配が漂った。

「そうですね。島の唯一の医療機関が、このまま立ち行かなくなるのは困ります」と、氷室は静かに応じた。「東野さん、早乙女さん。お二人は、神崎所長と何か揉め事を抱えていらっしゃいましたか?」

東野はスマートフォンの画面をそっと裏返し、テーブルに置いた。
「揉め事、ですか。まあ、意見の相違はありましたよ。特に、診療所の運営方針について」
 彼は言葉を選びながら続けた。
「所長は、昔ながらのやり方に固執する傾向がありました。新しい医療機器の導入や、本土の病院との連携強化についても、あまり前向きではなかった。私は、このままでは島の医療が時代に取り残されると危惧していたのですが」

早乙女は、東野の言葉に小さく頷いた。
「私も、もう少し効率的な運営が必要だとは感じていました。特に、薬剤の在庫管理や、患者情報のデジタル化は急務だと。でも、所長は昔からの紙のカルテを信頼していて、なかなか……」

氷室は、二人の言葉に耳を傾けた。
「具体的に、どのような『意見の相違』があったのでしょう?」

東野は、少し間を置いてから答えた。
「最近では、所長が個人的に進めようとしていた、ある土地の売買の話ですね。診療所の資金を、それに充てようとしていた節があった。私は、診療所の経営を圧迫する可能性があると反対したんです。所長は、その土地が島の将来にとって重要だと言っていましたが、私にはそうは思えなかった」

早乙女は書類の束を抱える腕に、わずかに力を込めた。
「私もその話は知っています。所長は、その土地を巡って、以前から島外の業者と頻繁に連絡を取っていました。診療所の資金が絡むとなると、私も心配でした」
 彼女は、東野の言葉を補足するように付け加えた。
「でも、所長は聞く耳を持たず、強引に進めようとしていましたね。最終的には、私にも詳しい内容は教えてくれませんでした」

橘は、二人の話を聞きながら、メモ帳にペンを走らせた。診療所の将来、所長の経営方針、そして謎の土地売買の話。表面上は冷静に、しかし言葉の端々からは、神崎所長の死によって、それぞれの立場が大きく揺らいでいることが見て取れる。そして、その揺らぎの根底には、個人的な利害や、所長への複雑な感情が渦巻いているようだった。

「その土地の件について、何か詳しい資料はありますか?」と、氷室は早乙女に尋ねた。

早乙女は、書類の束の中から一枚のファイルを取り出した。
「これが、所長が保管していた、その土地に関する唯一の資料です。簡単な登記情報と、数枚の地図しかありませんが」

氷室はファイルを受け取り、中身に目を通した。古い地図には、島の北東部に位置する、ほとんど手付かずの土地が示されている。その周辺には、かつて集落があったと思しき痕跡が、かすかに読み取れた。

「ありがとうございます。調べてみましょう」

氷室はそう言って、再び東野と早乙女の顔を見やった。二人の間には、先ほどまで共有されていたはずの不満とは異なる、別の種類の緊張感が漂っていた。それは、所長の死によって生じた空白を、それぞれがどう埋めようとしているのか、その思惑を推し量るような、静かな対立の萌芽であった。

東野は、置いたスマートフォンの画面を再び指先で撫でた。早乙女は、抱えた書類の束の端を、丁寧に揃え直していた。