橘は氷室の後ろで、小さく頷きながらメモ帳にペンを走らせていた。
「他に、まだお話を聞いていない方は?」
氷室が、部屋の隅で捜査員たちに指示を出していた所轄の刑事に声をかけた。
「早乙女事務員がまだです。ただ、彼女は少しショックを受けているようで、落ち着いてからの方が良いかと…」
刑事は言い淀んだ。
「いえ、構いません。話せる範囲で結構ですから」
氷室は静かに促した。
数分後、部屋の扉がノックされ、ゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、潮風診療所の事務員、早乙女葵だった。彼女は、体の線に合わないほどシンプルな制服に身を包み、縁の細い眼鏡の奥の瞳を伏せがちにしていた。その手は、胸元で固く握りしめられていた。
「早乙女さんですね。氷室と申します」
氷室は椅子を勧めると、葵は小さく頭を下げ、座席の端に浅く腰掛けた。
「はい……早乙女葵です。何か、お役に立てることがあれば……」
彼女の声は震え、か細かった。
「神崎所長とは、どれくらいの期間、お仕事をされていましたか?」
「四年になります。大学を卒業して、この島に戻ってきてからずっと……」
葵は、指先で制服の袖の端をぎゅっと掴むと、僅かに顔を上げた。その視線は、氷室の背後を彷徨い、定まらない。
「事件の夜、何か変わったことはありましたか?」
氷室は核心に迫った。
「変わったこと……ですか」
葵は呟き、考えるように視線を床に落とした。
「所長は、いつも通りでした。あの、書斎の鍵は……いつも、ご自分で管理されていました」
「それはご存知でしたか?」
「はい。所長は、大切な書類を保管されていたので、鍵は常に身につけているか、デスクの引き出しにしまっていました。誰も触れないよう、厳しく言われていましたから」
彼女は言葉を選びながら、ゆっくりと話した。
「神崎所長は、その夜、診療所にいましたか?」
「はい。私は、八時過ぎに一度、所長室の前を通りました。電気がついていました。その時は、まだお仕事中なのだと……」
「何か音は聞こえましたか?」
「いえ、特に。いつも通り、静かでした」
葵は首を横に振った。
「その後、所長室にどなたかが出入りするのを見かけましたか?」
「いえ。私は九時半頃に退勤しましたので……。その時も、所長室の明かりはついていました」
彼女は両手を膝の上で重ね合わせ、その指先がわずかに震えている。
橘はメモを取りながら、ふと顔を上げた。
「早乙女さん、神崎所長は、普段から何か特別な習慣をお持ちでしたか?例えば、時間についてとか、何かを大切にするとか」
橘の問いに、葵は少し考え込んだ。
「時間……ですか。あ、そういえば……」
彼女は、何かを思い出したように、わずかに目を見開いた。
「所長は、いつも懐中時計を身につけていらっしゃいました。そして、時々、その時計を直していました」
「直す、とは?」
氷室が身を乗り出した。
「ええと、時間を合わせる、というのでしょうか。でも、時計が狂っていたわけではないんです。なんというか、ご自身の時計を、他の時計より数分だけ、進めていたように見えました」
葵は、説明に窮する様子で、言葉を探した。
「進めていた?」
橘が復唱した。
「はい。例えば、壁の時計が五時ちょうどを指していても、所長の懐中時計は五時三分を指している、といった具合に。ご自分だけの時間、と仰っていたような……」
彼女は、話しながらも、どこか自信なさげに、視線を泳がせた。
「それは、いつものことでしたか?」
氷室が静かに尋ねた。
「ええ、私が働き始めてから、ずっとそうでした。時々、休憩中に、懐中時計を取り出して、じっと眺めては、小さなつまみを回していらっしゃいました」
葵は、その時の所長の様子を思い出すように、ゆっくりと話した。
「その懐中時計は、どこでご覧になりましたか?」
「いつも、白衣の胸ポケットに入れていらっしゃいました。大事なものだと……」
氷室は、橘と視線を交わした。被害者の懐中時計が数分進んでいた、という事実。
「あの、それと……」
葵は、突然、小さな声で付け加えた。
「事件のあった夜、停電があった後、所長室の暖炉から、いつもより少し、煙が出ていたような気がします」
「煙、ですか?」
「はい。普段はあまり使われないのに、あの晩は、少しだけ焦げたような匂いがして……気のせいかもしれませんが」
彼女は、両手をさらに強く握りしめた。その指先は白くなっていた。
「ありがとうございます、早乙女さん。大変参考になりました」
氷室はそう言うと、葵は深々と頭を下げ、ゆっくりと部屋を出て行った。
彼女の姿が見えなくなると、橘はすぐさま氷室の方を向いた。
「氷室さん、懐中時計の話、そして暖炉の煙。これは……」
氷室は、その言葉を遮るように、静かに立ち上がった。
「確認すべき点が、増えましたね」
彼は、すでに次の行動を定めているようだった。