潮風診療所の二階、その奥まった一室が神崎隆の書斎だった。扉を開け放たれたそこは、重厚な木の香りと、わずかに血の臭いが混じり合う空気を湛えていた。氷室怜は、知的な眼鏡の奥の瞳で室内を静かに見渡す。落ち着いたスーツ姿が、荒々しい春の嵐の音と、この密室の異様さの中で、一点の静謐を保っていた。橘健太は、カジュアルな服装のまま、部屋の入り口で固唾を飲んだ。彼の好奇心に満ちた表情は、しかし、すぐにメモ帳とペンを取り出すという行動に変わった。
部屋の中央に置かれた大きな木製デスクに、神崎は突っ伏していた。白衣ははだけ、その胸元には黒い染みが広がっている。刺し傷は深く、致命的であることは誰の目にも明らかだった。足元にはアンティーク調のペーパーナイフが落ちている。その刃には鈍い光沢が残っていた。
氷室は白く薄い手袋をはめると、まず神崎の傍らに膝をついた。被害者の疲れた表情はすでに硬直している。氷室の視線は、神崎のスーツの胸ポケットからわずかに覗く金属製の鎖に向けられた。その鎖をたどり、彼は慎重に年代物の懐中時計を引き出した。氷室の手が時計を手のひらに乗せると、微かに息を止め、眼鏡の奥の瞳を凝らし、その文字盤を覗き込んだ。スーツの袖がデスクの端に擦れる。カチ、カチと規則正しい秒針の音が、嵐の吹き荒れる音の合間に小さく響いた。氷室は親指で小さな竜頭を回し、時刻を合わせた後、再びポケットに戻した。その一連の動作には一切の無駄がない。
橘は氷室の動きを、まばたきもせずに追っていた。傍らで、看護師の沢村悠斗、薬剤師の東野悟、事務員の早乙女葵が、不安げな面持ちで部屋の入り口に固まっている。彼らは一様に、診療所という閉鎖的な空間で起きた惨劇の現実を受け止めきれない様子だった。漁師の南原健は、その場にいることすらためらうように、少し離れた場所で腕組みをしていた。
氷室は立ち上がると、視線を部屋の隅々へと巡らせた。窓は内側からしっかりと施錠されている。彼の指先が、窓枠とガラスの隙間に触れた。微細な、しかし確実にそこにあるざらつき。氷室は顔を近づけ、その痕跡を観察した。そこには、何らかの接着剤が塗布され、乾燥したような跡が残っていた。肉眼で確認できるかできないか程度の、ごくわずかな白い筋。
次に、部屋の隅にある暖炉に目を向けた。昨日まで火が入れられていたであろう薪は、ほとんど燃え尽きていた。しかし、その燃え残りの中に、不自然に短い木片がいくつか混じっている。それらは、一般的な薪とは異なり、途中で切り落とされたような断面を見せていた。
氷室は部屋の全体を、もう一度ゆっくりと見回した。密室。外からの侵入は不可能。内側からの施錠。鍵は室内にあった。
「橘君」と、氷室は静かに声をかけた。「書斎の窓枠に、何か付着していないか確認してほしい。念のため、写真も撮っておいてくれ」
橘は返事をすると、すぐに氷室が指差した窓へと向かった。しゃがみ込み、スマートフォンを取り出すと、注意深く写真を撮り始めた。彼の指先が、氷室が触れたのと同じ窓枠のざらつきをそっと確かめる。その感触は、彼の好奇心をさらに刺激するようだった。
「氷室さん、これ、何かの痕跡ですか?」橘が尋ねた。
氷室は答えず、暖炉の前に戻り、燃え残りの木片を改めて見つめた。その表情は変わらず冷静だったが、その観察力のある瞳の奥には、すでにいくつもの仮説が交錯していることを感じさせた。彼はさらに数枚、スマートフォンのカメラで燃え残りの薪を撮影した。橘は、氷室が暖炉の薪に執着する理由を測りかねながらも、彼の指示に従い、窓枠の細部を丹念に記録し続けた。
「所長が使っていたものだ」沢村が、か細い声で言った。「書斎の暖炉は、冬の間はいつも使われていました」
氷室は沢村の方に顔を向けたが、何も言わなかった。ただ、その言葉を静かに受け止めたように見えた。彼は再びデスクの前に戻り、神崎の倒れている姿を、もう一度、観察した。その手元には、書きかけの書類が散らばっている。日付は昨日のものだった。