「沢村さん、少しお時間をいただけますか。」氷室 怜の声は穏やかだったが、その響きには有無を言わせぬものがあった。
沢村 悠斗は、いつも通りの清潔な看護服を身につけ、部屋に入ってきた。その顔色には、この数日の疲労が滲み出ている。氷室は、部屋の中央にある小さなテーブルを挟んで沢村と向かい合った。橘 健太は、壁際に控えるように立っている。
「何か、お分かりになりましたか。」沢村は尋ねた。その声には、僅かながら期待と、それ以上の不安が混じっているように聞こえた。
氷室は何も答えず、ただ沢村の目をじっと見つめた。その視線は、感情を読み取らせない、しかし有無を言わせぬ力を宿している。部屋に静寂が落ちる。
「神崎所長が亡くなられた夜のことですが。」氷室は静かに切り出した。「停電がありましたね。」
沢村はゆっくりと瞬きをした。「ええ。嵐のせいで、一時的に。すぐ復旧しましたが。」
「その時刻を覚えていますか。」
沢村は少し考え込むように視線を泳がせた。「確か、午後九時を少し過ぎた頃だったかと。正確な時間は記録していませんが、皆、時計を確認したはずです。急に電気が消えて、真っ暗になったものですから。」
氷室は頷いた。手元のメモ帳には、既にその情報が記されている。橘は、そのやり取りをじっと見守っていた。
「所長が使われていた懐中時計を覚えていますか。」
沢村は、はっ、と小さく息を呑んだ。その顔色が変わる。「はい。年代物の、大切にされているものでした。」
「その懐中時計が、他の時計より数分進んでいたことをご存知でしたか。」
「……いいえ。知りませんでした。」彼は、そこで言葉を詰まらせた。
氷室は、依然として沢村から目を離さない。その視線は、彼の心の奥底を探るかのように、微動だにしない。
「神崎所長は、非常に几帳面な方でした。時間を正確に守ることを、常に周囲にも求めていましたね。」
沢村は、ふう、とゆっくり息を吐いた。その呼吸は、僅かに震えているように見えた。
「はい……。所長の時計がずれているなど、考えられません。」
「しかし、事実として、進んでいたのです。」氷室は淡々と告げた。「停電の時刻と、その懐中時計のずれ。この二つが、ある可能性を示唆しています。」
橘は、その言葉の裏に隠された意味を理解しようと、メモ帳を握りしめた。
「その夜、所長室の暖炉には火が灯っていたと聞いています。」氷室は、話題を切り替えた。「薪は、どのくらいの量がありましたか。」
沢村は、眉をひそめた。「薪、ですか。いつも通り、焚きつけと、大きめのものが数本、だったかと。所長は寒がりでしたから。」
「その燃え残りを見た時、何か違和感はありませんでしたか。」
沢村は唇を噛み締めた。彼は、目を伏せ、考えるように沈黙した。
「……特に。いつも通り、燃え尽きていたように見えました。」
「本当にですか。」氷室の声は、抑揚がない。しかし、その一言には、静かな圧力が込められていた。
沢村は、顔を上げた。氷室の視線は、やはり彼を捉えて離さない。
「ええ……。そう、思います。」沢村の声は、最初の時よりも明らかに小さくなっていた。
氷室は、沢村の反応を注意深く観察した。彼の言葉と、その裏にある微かな動揺。
「所長室の窓枠に残された、微細な接着剤の痕跡について、何か心当たりは。」
唐突な問いに、沢村の肩が僅かに跳ねた。
「接着剤……ですか? いいえ、全く。所長室で接着剤を使うようなことは、なかったはずですが。」
「そうですか。」氷室はそれ以上追及せず、ただ頷いた。
その沈黙が、さらに部屋の空気を重くした。橘は、沢村の指先が、看護服の裾を強く握りしめているのを見た。
「沢村さん。あなたは、神崎所長を長年支えてこられました。」氷室の声が、再び響く。「所長の行動や習慣について、我々が知らない、何か特別なことはありませんでしたか。」
沢村は、ゆっくりと頭を横に振った。「特別なこと、ですか……。特に、思い当たりません。」
「本当に、何も。」
氷室の視線は、依然として沢村の顔に固定されている。
沢村は、一度、深く息を吸い込んだ。その息は、肺の奥から絞り出すように、僅かに震えていた。
「……所長は、時々、夜遅くまで書斎に籠もることがありました。特に、本土から古い書類が届いた後などは。」
「古い書類、ですか。」
「はい。何かの土地の資料だったかと。私には、詳しいことは分かりませんでしたが、昔の島の開発に関わるものだと、仰っていたことがあります。」
氷室は、そこで初めて視線を外した。手元のメモ帳に、何かを書き加える。
「ありがとうございます、沢村さん。今日のところは、これで結構です。」
沢村は、解放されたかのように、深く息をついた。彼の顔には、疲労と、まだ拭いきれない困惑の表情が残っていた。
沢村が部屋を出ていくと、橘はすぐに氷室に尋ねた。「氷室さん、あの懐中時計のズレと停電は……。」
氷室は、メモ帳を閉じた。「停電の時刻と、懐中時計が進んでいた事実。そして、書斎の窓枠の接着剤。これらが示すものは、一つしかありません。」
彼は窓の外、嵐が去った後の静かな海を眺めた。
「犯人は、神崎所長が密室の中で死亡した『時刻』を偽装したかった。そのために、いくつかの周到な準備をしていた、と。」
橘は、その言葉に息を呑んだ。「偽装、ですか。」
「ええ。」氷室は頷いた。「そして、その偽装工作には、ある種の『時間』が必要だったはずです。」
氷室の目は、再び鋭い光を宿し、部屋の隅々を見渡した。
「我々は、神崎所長が亡くなった『本当の時刻』と、犯人が私たちに見せようとした『偽りの時刻』。その間の空白を埋めなければなりません。」
橘は、メモ帳を広げ、新たな仮説を書き記し始めた。
「そして、その空白の時間に何が起きたのか。それを知る者が、まだこの診療所の中にいる可能性が高い。」
氷室は、ゆっくりと立ち上がった。彼の動きは、静かだが、確固たる決意に満ちていた。
「次に確認すべきは、停電時に、各人がどこで何をしていたか。そして、その証言の細部に矛盾がないか、です。」