氷室は、書斎の窓枠に指先を滑らせた。すでに鑑識による採取は終わっているが、微かに残る接着剤の跡は、彼の観察力のある瞳にはまだ捉えられた。橘は、その隣でメモ帳を広げている。
「この接着剤は、やはり、内側から塗られたと考えるのが自然か」氷室は独り言のように呟いた。
橘が顔を上げた。「所長が自分で、嵐の隙間風を防ぐために塗った、と?」
「可能性の一つだ。あるいは、犯人が密室を偽装するために、外から侵入した後、内側から施錠し、さらにこの接着剤で窓の隙間を塞いだ。そうすれば、外からの侵入経路が完全に断たれたように見える」
氷室は、窓の鍵の状態を確認する。内側からしっかりと掛けられている。
橘は窓の外に目をやった。まだ風は強いが、雨は小康状態だ。
「でも、もし犯人が外から入って、わざわざこんな接着剤で窓を塞いだとしたら、どうやって逃げたんでしょう? 鍵は内側からかかってましたし、他に脱出経路はない」
氷室は、眼鏡のブリッジに指を当て、少し考えた。
「その点が、この密室の最も厄介な部分だ。窓枠に残された接着剤の跡は、確かに内側から塗られたように見える。しかし、その接着剤が、本当に窓を『開けられないように』する目的で塗られたものだったのかどうか」
彼は窓枠の接着剤の残り具合を、再び、じっと見つめた。その接着剤が、窓と枠の間に僅かながら残っていた。
「接着剤の量は、それほど多くはありませんね」と橘が言った。「隙間風を防ぐには心許ない。それに、所長がわざわざこんなものを塗るとは思えません。もっとしっかりした目張りをするでしょう」
氷室は頷いた。「同意する。しかし、かといって、犯人が密室を偽装するために、これだけの接着剤で窓を完全に固定できたとも考えにくい。これでは、簡単にこじ開けられてしまう」
彼は窓の縁に触れる。冷たく、僅かに湿っているような感触があった。
「嵐の中、この窓は濡れていたはずだ。接着剤が濡れた状態で塗布された場合、その接着力は低下する。だが、その後の乾燥で、ある程度の接着力は回復するだろう。問題は、その接着が、内側から窓を開けようとしたときにどう作用するかだ」
橘はメモを取る手を止めた。「つまり、犯人は、接着剤で窓を固定した後、どこか別の方法で逃げた、と?」
「それが最も合理的だ。この接着剤は、あくまで偽装工作の一部。密室を演出するための、視覚的なトリックだったのかもしれない」
氷室は、一度書斎全体を見回し、それからデスクに向かった。被害者の懐中時計はすでに回収されているが、デスクの上には、所長が日常的に使っていたであろう書類がいくつか残されている。
「別の可能性も考えるべきだ。この接着剤は、窓が『開けられた』後に塗られたものではない、と」
橘は首を傾げた。「では、いつ?」
「犯行前に、何らかの理由で塗られていた。所長自身が、嵐の夜に窓を固定するために。そして、犯人はその接着剤を逆手に取った。窓を一度開け、用を済ませた後、再び閉め、接着剤の痕跡を残したまま立ち去った。だが、その方法が問題だ」
氷室は、机の上の資料を数枚手に取った。古い土地開発計画の書類だ。
「この書類は、神崎所長が過去に関わっていた土地開発に関するものだ。ここに、事件の動機が隠されている可能性が高い」
彼は書類に目を落とし、さらに深く読み込む。その知的な眼鏡の奥の瞳は、数字と文字の羅列を追っていた。
「橘くん、この土地開発計画について、もう少し詳しく調べてみてほしい。特に、三十年前の周辺住民の反応、そして、その後の資金の流れだ」
「はい、分かりました。島の役場に問い合わせてみます」橘はすぐにメモ帳に書き込んだ。
「窓の接着剤については、鑑識の報告書を待つしかない。だが、私の見立てでは、あれは窓を『閉じた状態』で、外部から開けられないように見せるためのものだった。犯人は、嵐の混乱に乗じて、一度窓を開け、用を済ませ、閉めた後、何らかの細工をしたのだろう」
氷室はそう結論づけた。彼の中では、接着剤はあくまで「閉じた窓を固定する」ためのもの、あるいは「閉じた窓が開けられないように見せかける」ためのもの、という解釈が固まりつつあった。彼は、その接着剤が、窓を「開いた状態」から「閉じた状態」へとスムーズに移行させるための「仕掛け」である可能性を、この時点では深く追求しなかった。
「では、私は一度役場へ行って、この書類の件を確認してきます。ついでに、あの懐中時計が、本当に所長がいつも数分進めていたのかどうか、誰か知っている人がいないか、他の職員にも聞いてみましょうか?」橘は尋ねた。
氷室は、書類から顔を上げ、少し間を置いてから言った。「いや、懐中時計の件は、今はいい。それは後でまとめて確認しよう。今は、この土地開発の件を優先してほしい。動機が解明されれば、自ずと密室のトリックも見えてくるはずだ」
橘は少しだけ眉をひそめたが、すぐに「承知しました」と答えた。彼は、氷室の指示に従い、書斎を出て行った。
氷室は一人、再び机の上の書類に目を落とした。窓の接着剤に関する疑問は、彼の中で一旦棚上げされた。彼は、より切迫した「動機」の解明に、思考の焦点を当てていた。窓のトリックは、その後に付随するものだと、彼は考えていたのだ。