第30節
時計の針と嵐の夜

氷室は、テーブルに広げられた資料の山を前に、しばらく無言でいた。潮風診療所の見取り図、関係者たちの証言をまとめた紙、そして被害者・神崎隆の書斎から回収された品々の写真。その中には、以前から気にかかっていた「失われた骨董品」に関するメモもあった。

「あの、氷室さん。結局、あの香炉の行方は……」
 橘が口を開きかけた。あの夜、書斎から持ち出されたとされる高価な香炉。当初はそれが物盗りの線を示唆すると考えられていた。

氷室は、香炉の写真が貼られたメモ用紙を、指先でそっと押さえていた。そのまま数秒、その一点を見つめる。
 やがて、彼の視線がゆっくりと、そのメモ用紙から、書斎の窓枠に残されていたという微細な接着剤の跡を記した鑑定書へと移った。彼の目は鑑定書の小さな図版を追う。

氷室は、手元の何枚かのメモを拾い上げた。香炉のメモもその中に含まれていた。彼はそれらを素早く、しかし丁寧に並べ替える。香炉のメモは、暖炉の燃え残りや、神崎所長の懐中時計の進み具合に関する考察が書かれた紙の下に滑り込んだ。彼の指先が、その並べ替えを終えると、テーブルの上に再び静寂が降りた。潮風診療所の廊下を吹き抜ける風の音が、遠くでかすかに聞こえるだけだ。

氷室は、懐中時計の時刻に関する分析が書かれたメモを指先でなぞった。その紙の端には、橘が走り書きした「数分進んでいた」という言葉があった。彼はその言葉を、改めて目で追う。

「橘くん」
 氷室の声が、静寂を破った。
「神崎所長は、常に正確な時間を重んじる方だった。そう証言したのは、沢村さんでしたか」

「ええ、そうです。看護師の沢村さんが、所長は秒単位で時間を気にする人だった、と。診察の予約時間も、薬の調合時間も、非常に厳格だったと話していました」
 橘は即座に答えた。手元のメモ帳を繰り、沢村の証言部分を確認する。

氷室は、その懐中時計のメモをさらに詳しく読み込んだ。その視線は、紙の隅々まで行き渡る。
 彼は独り言を漏らした。「几帳面な人物が、なぜ自分の懐中時計を数分も進ませたままにしていたのか……」。その声は、疑問というより、むしろ確信を確かめる響きを持っていた。

橘は、氷室が情報の優先順位を組み替えた瞬間を見た。骨董品の話題は沈み、懐中時計の時刻のずれが、以前よりもはるかに重い意味を持ち始めた。

氷室は、ふと顔を上げた。
「あの晩、嵐で一時的に停電がありましたね」
 彼の視線は、橘の目ではなく、卓上の資料のその先、壁の時計に向けられた。

「はい。ちょうど神崎所長が書斎に戻られた直後くらいだったかと。約五分間、島全体が闇に包まれました」
 橘は、停電に関する町の記録を頭の中で引き出した。その情報も、すでに何度か確認されたものだ。

氷室は、何も言わず、ただその事実を噛みしめるかのように、唇をきゅっと引き結んだ。そして、再び懐中時計のメモに目を落とす。彼の指が、そのメモの「数分進んでいた」という記述に触れた。
「この停電と、懐中時計の時刻のずれ。関係がないと考える方が、不自然だと思いませんか」
 彼は橘に問いかけた。その問いかけは、新たな方向性を示唆しているようだった。

橘は息を飲んだ。確かに、停電と時計のずれ。これまでは単なる偶然か、所長の習慣の範疇だと考えられていたかもしれない。だが、氷室の言葉によって、それは突如として、奇妙な関連性を帯びて見えた。

「しかし、停電の間に誰かが書斎に入り、所長の懐中時計の時間を操作したとすれば……密室はどうなりますか?」
 橘は、すぐに疑問をぶつけた。彼の頭の中では、密室のトリックと、時計の操作という二つの要素が、まだうまく結びつかなかった。

氷室は、その疑問に対して即座に答えることはなかった。彼は、卓上の資料から、書斎の窓枠の写真を探し出した。嵐の夜、雨に濡れたことで接着剤が乾ききらなかった可能性を示唆する、微かな痕跡が写っている写真だ。彼はその写真を指でなぞりながら、ゆっくりと首を傾げた。

「窓枠の接着剤の跡。そして、懐中時計の時刻のずれ。どちらも、偶然では片付けられない」
 彼の声には、確固たる意志が宿っていた。
「橘くん、もう一度、あの晩の停電時の、診療所内の人々の動きを洗い直しましょう。特に、神崎所長の書斎周辺にいた人物の証言を、時間軸に沿って詳細に整理し直してください」

氷室の視線は、橘のメモ帳に向けられた。橘は、言われた通りにペンを走らせる。彼のメモ帳には、新しい調査項目が追加された。失われた骨董品に関する記述は、すでにページの奥へと追いやられていた。