潮風診療所の二階は、春の嵐が窓を叩く音とは裏腹に、張り詰めた静寂に包まれていた。所長室の扉は厚いシートで覆われ、その向こうからは規則的なシャッター音と、何かが擦れるような鑑識作業の微かな音が漏れ聞こえる。消毒液の刺激的な匂いが、室内にこもり、潮の香りと混じり合って、どこか現実離れした感覚を私に与えた。
氷室は、入口から数歩離れた廊下の壁に背を預け、腕組みをして、その光景を静かに見つめていた。知的な眼鏡の奥の瞳は、一点を見据えることなく、しかし確実に周囲の全てを捉えているようだった。私は、その隣でメモ帳を握りしめ、古賀駐在の話に耳を傾けていた。古賀は、この島の唯一の警察官であり、顔には明らかな困惑の色が浮かんでいる。
「……それで、神崎所長が発見されたのは午前八時十分。第一発見者は、早乙女さん、あなただと?」
古賀は、傍らに立つ女性に視線を向けた。早乙女葵。診療所の事務員である彼女は、普段のきっちりとした事務服姿とは異なり、どこか乱れた印象を受けた。青白い顔色で、真面目そうな眼鏡の奥の瞳は、揺らめく水面のように落ち着きがない。
「はい……私が、朝、所長にご報告に伺った際、鍵がかかっていたので、ノックを……」
早乙女の声は、か細く震えていた。彼女はそこで一度言葉を区切り、ごく短い間を置いた。その間に、右手の指先が、左の袖口を無意識に辿るように、何度も擦り合わせた。淡いブルーの制服の生地が、その動きに合わせてわずかに波打つ。古賀は、その僅かな沈黙を気にする様子もなく、次の質問を促した。
「ノックをしても応答がなく、マスターキーで開けた、と。その時、室内はどのような状況でしたか?」
早乙女は、再び唇をきつく引き結び、それからゆっくりと話し始めた。
「扉を開けたら……所長が、デスクに突っ伏して……。胸から、血が……」
彼女は言葉を探すように、途切れ途切れに話す。その表情は、今にも泣き出しそうだった。
氷室は、彼女の言葉の一つ一つを、まるで濾過するように聞いている。古賀駐在は、早乙女の動揺を慮るように、時折相槌を打ちながら質問を続けていた。
「所長室の鍵は、いつも内側から施錠されていたのですか?」と氷室が、静かに尋ねた。その声は、嵐の音にも負けないほど、明確に響いた。
早乙女は、はっとしたように氷室に視線を向けた。
「え……? いえ、普段は……」
彼女はまた、言葉を詰まらせた。その指先が、またしても袖口を無意識に撫でる。
「普段は施錠されていなかった、と?」氷室は追撃する。
早乙女は、俯きがちに答えた。
「はい……所長は、書斎で作業される時は、鍵をかけないことがほとんどでした。来客がある時以外は……」
その声は、徐々に小さくなっていった。
その時、二階の廊下の奥から、もう一人の人物が姿を現した。東野悟、診療所の薬剤師だ。彼もまた、白衣のまま、神経質そうな表情で私たちの様子を窺っている。スマートフォンを片手に、しきりに画面をスクロールしているのが見えた。彼が廊下に現れたことで、早乙女はわずかに身を強張らせたように見えたが、それは一瞬のことで、すぐに元の俯き加減に戻った。
氷室は、早乙女から東野へと、その視線を滑らせた。そして再び、所長室の扉へと目を向けた。その表情は相変わらず冷静で、何を考えているのか、私には全く読み取ることができなかった。だが、早乙女の言葉の端々に、何か引っかかるものがあったのは確かだ。普段は鍵をかけないという所長が、なぜ殺害時に限って内側から施錠されていたのか。その矛盾が、私の心に小さな波紋を広げた。