診療所の休憩室は、昼食後にもかかわらず、どこか重苦しい空気が漂っていた。窓の外では相変わらず風雨が吹き荒れ、本土からの連絡船は依然として欠航を続けているという。氷室は淹れたてのコーヒーを一口含み、壁にかけられた古びた時計に視線をやった。その時計は、神崎所長の書斎で見つかった懐中時計とは異なり、正確な時を刻んでいるように見えた。
「東野さん、少しよろしいですか」
氷室の声に、隅のソファに座ってスマートフォンをいじっていた東野悟が、ゆっくりと顔を上げた。彼は白い薬剤師の制服を着ていたが、その表情にはどこか疲労の色が濃い。
「またですか? もう何度も同じことを聞かれているんですが」
東野はそう言いながらも、指先でスマホの画面を不必要に速くスクロールし始めた。彼の視線は氷室の顔を避け、宙を彷徨う。
「いくつか、確認しておきたいことがありましてね。神崎所長の懐中時計の件ですが、あれはいつも正確だったのでしょうか」
橘は氷室の隣で、メモ帳を構えていた。東野はわずかに眉をひそめた。
「さあ、どうでしょう。所長はいつも持っていらっしゃいましたけど、私がいちいち時間の正確さまで気にすることはありませんから」
東野の声が、少しだけ高くなった。彼は空いた手で、膝の上で組んだもう一方の指を、ぎゅっと握り込んだ。
「しかし、あの夜、所長が書斎に入った時刻について、あなたは十一時過ぎだと証言されましたね。その際、所長が時間を気にしている様子はありましたか」
氷室は淡々とした口調で問いかけた。
「ええ、まあ、そうですね。普段通りでしたよ。特に変わった様子は……」
東野は途中で言葉を詰まらせ、急に視線を床に落とした。そして、乾いた笑いを一つこぼした。
「はは、まさか、そんな細かいことまで憶えているわけないでしょう。一晩中嵐で、停電もしたんですから。みんな神経質になっていましたし」
彼の言葉が、先ほどよりも一層早口になった。指先が膝の上で組まれたまま、小刻みに震えているように見えた。
その時、休憩室のドアが静かに開いた。事務員の早乙女葵が、両手に書類を抱えて入ってきた。彼女は氷室と東野の様子を見て、一瞬、立ち止まった。その表情には、普段の真面目さに加えて、どこか怯えの色が浮かんでいる。
「すみません、失礼します」
早乙女はそう呟くと、足早に自分のデスクへと向かった。彼女はシンプルな制服に身を包み、真面目そうな眼鏡をかけていたが、その動きはどこかぎこちない。書類をデスクに置く際、手がわずかに震えていた。
「早乙女さん、少しお話を伺ってもよろしいですか」
氷室が声をかけると、早乙女はびくりと肩を震わせた。彼女はゆっくりと振り返り、氷室と視線を合わせようとせず、壁の時計に目を向けた。
「あの、私、もうお話しすることは……」
早乙女の声は小さく、か細かった。彼女は指先で制服の袖口をいじり始めた。
「昨夜の停電の件ですが、その際、あなたはどこにいましたか」
氷室は早乙女の視線を追うように、ゆっくりと時計へと目を向けた。
「私は、その……仮眠室にいました。あの、電気が消えて、少し怖くて……」
早乙女はそう言いながら、さらに視線を泳がせた。彼女は腕組みをし、自分の肘を指でつつくようにした。
「停電は、確か深夜零時を少し過ぎた頃でしたね。その前後に、誰かと会ったり、何か変わった物音を聞いたりしましたか」
氷室の問いに、早乙女は首を横に振った。
「いいえ、何も。ただ、嵐の音がすごくて……」
彼女はそこで言葉を切り、再び東野の方をちらりと見た。東野は相変わらずスマホを操作しているが、その動きは先ほどよりもゆっくりになり、画面を凝視しているようだった。休憩室の空気は、さらに重みを増した。
氷室は二人の様子を静かに観察していた。彼はコーヒーカップをテーブルに置き、その沈黙は、嵐の音にも負けないほどの存在感を放っていた。橘は、その様子をすべてメモに書き留めていた。