春の嵐が吹き荒れる中、氷室怜と橘健太は再び潮風診療所の二階、神崎隆の書斎に足を踏み入れた。部屋には、わずかに消毒液と、人の気配が消えた後の静寂が満ちていた。窓の外からは、時折唸るような風の音が届き、ガラスを叩く雨粒の音が耳についた。
氷室は無言で室内を見渡した。机の上に散乱した書類は、捜査員によって既に整理され、被害者の遺体があった場所も清められていた。しかし、部屋全体が持つ、密室殺人の舞台としての異様な気配は、まだそこにあった。彼はまず書斎のドアに向かい、内側から施錠された状態を確認した。鍵は、事件発生時と同じく、鍵穴に刺さったままだった。
「やはり、ここが密室の要ですね」橘がメモ帳を開きながら言った。「外部からの侵入は不可能だった、と」
氷室は答えることなく、ゆっくりと窓辺へ移動した。彼は窓ガラスに顔を近づけ、その表面、そして木製の窓枠の隅々までを、観察力のある瞳で仔細に調べ始めた。嵐の湿気を含んだ空気が、彼の指先に微かに触れる。窓は二重になっており、外側の窓は少し開いていたが、内側の窓はしっかりと閉められ、内側からクレセント錠がかけられていた。
彼はまず、外側の窓枠に軽く指を滑らせた。雨に濡れた木材の感触が、指の腹に直接伝わった。次に内側の窓に目を移し、その鍵の周辺、そして窓枠全体を、息を詰めるようにして見つめた。彼はポケットから小さなルーペを取り出すと、それを窓ガラスと木枠の境目に当て、さらに詳細に観察した。
その時だった。
氷室の指先が、窓枠のわずかな凹みに触れた。それは、乾燥して硬く、ざらつきのある小さな塊だった。透明に近い物質で、指の腹で軽く擦っても簡単には落ちない。彼はルーペをその塊に当て、光の角度を変えた。すると、塊の微細な表面が、かすかに反射した。
「氷室さん、何か?」橘がすぐさま反応した。
氷室は顔を上げず、その塊に集中したままだ。「ええ、ここに」
彼は、その痕跡を凝視した。透明な物質が薄い膜のように窓枠に残っていた。それは、どこか不自然な、人工的な硬さを帯びていた。彼は指先でその透明な物質をなぞり、ゆっくりと剥がそうと試みたが、木材に固く密着していた。
「これは…何でしょう?」橘がルーペを覗き込む氷室の隣に立ち、尋ねた。
「さあ。古い接着剤の残り、かもしれませんね」氷室はそう答えたが、橘は、その声の奥に、単なる古い接着剤という言葉では片付けられない、何か別の含みを感じ取った。氷室は、その塊から目を離さず、深々と息を吐いた。
彼はルーペをしまい、再び窓枠全体を見渡した。その透明な痕跡は、窓枠の特定の一箇所にのみ、ごくわずかに付着しているだけだった。何の変哲もない窓枠の、ごく小さな一部。しかし、氷室の視線は、そこに深く留まった。彼は、何かを確認するように、窓を数度、開閉してみせた。窓はスムーズに動き、特に引っかかる様子もなかった。
「この窓は、完全に密閉されていたわけではない、と?」橘が疑問を口にした。
「それは、まだ何とも言えません」氷室は簡潔に答えた。「ただ、この痕跡が、何かを物語っている可能性はあります」
彼は窓から離れ、今度は書斎の中央に置かれた大きな執務机に向かった。机の上には、神崎所長が事件当夜まで目を通していたであろう書類の束が残されていた。その中には、三十年前にこの島で計画されていた、ある土地開発に関する古い資料も含まれていた。紙は日焼けし、端はわずかに茶色に変色していた。氷室は、その資料を手に取り、ページを一枚一枚、静かに繰っていった。
「この資料は、所長がなぜ今、改めて調べていたんでしょうね」橘が呟いた。「まさか、事件と関係があるとか?」
氷室は資料から顔を上げ、書斎の暖炉に目を向けた。暖炉の中には、火が消えた薪が不自然なほど短く燃え残っていた。彼はその薪を、手に取って軽く揺らした。灰が細かく舞い上がった。
「その可能性も、ないとは言いきれません」氷室は、そう答えた。彼の視線は、書斎全体をゆっくりと巡り、何か見落としているものがないか、丹念に探る動きを見せた。