第27節
嵐の中の物置小屋

二階の廊下は、書斎の重苦しさとは打って変わって、わずかに外の風の匂いを運んでいた。荒れた天候が続くためか、窓は固く閉じられている。

氷室は、書斎の扉を背に、ゆっくりと呼吸を整えた。その指先が、いつもの癖のようにスーツの袖口を軽く撫でる。
「少し、空気が違いますね」
橘は、深く息を吐き出した。詰めていたものがようやく解放されたような、明確な吐息だった。
彼の視線は、廊下の突き当たりにある大きな窓に向けられていた。厚いガラスの向こうでは、灰色の空が低く垂れ込め、雨粒が横殴りに打ち付けている。光は乏しく、氷室の髪に一瞬だけ、窓越しの鈍い光が反射しては消えた。

「ああ。風向きが変わったか」
氷室は応え、懐からスマートフォンを取り出した。画面を滑らせ、天気予報アプリを開く。本土とのフェリー欠航は、まだ解除の見込みがない。
「この嵐では、外部との連絡もままなりませんし、動ける範囲も限られてきます」
橘は、手元のメモ帳をパラパラとめくった。先ほど早乙女事務員から聞き取った内容が、走り書きで記されている。
「早乙女さんは、神崎所長と東野薬剤師が、最近よく意見を衝突させていたと言っていました。特に、薬剤の管理方法について、所長が強く当たっていたと」
氷室はスマートフォンの画面を閉じ、ポケットに収めた。その視線は、廊下の壁に飾られた、古びた島の風景画に留まっている。
「なるほど」
短い返答だった。しかし、その声には、橘の言葉に対する何らかの反応が確かに含まれていた。
「東野さんは、都会での新しい医療技術を積極的に導入すべきだと主張していたようです。しかし、所長は島の伝統的なやり方を崩したがらなかった、と」
橘は続けた。
「それに、沢村看護師も少し気になりました。所長への忠誠心が厚いのは分かるのですが、話している間、終始目を伏せがちで。何か隠しているようにも見えました」
氷室は、風景画から視線を外し、ゆっくりと廊下の反対側へと歩き出した。
「隠し事、ですか」
「はい。質問に答える時、言葉を選んでいるのが分かりました。特に、神崎所長が事件の夜、書斎で何をしていたかという問いには、明確な答えを避けていました」
「彼が何をしていたか、沢村看護師は知っていた、と」
氷室は、足を止めた。目の前には、薬品庫へと続くドアがある。
「ええ。少なくとも、通常の業務ではない何かがあった、という印象を受けました」
橘は、氷室の隣に並び、ドアノブに手を伸ばす。しかし、氷室はその手の上に、そっと自分の手を重ねた。
「少し、別のところを見てみましょう」
氷室は、薬品庫のドアから手を離し、視線をその奥へと向けた。薬品庫のさらに奥に、裏庭へと通じる小さな通用口があるのを、先ほど見たばかりだった。
「裏庭、ですか」
橘は、その方向に顔を向けた。荒れた風雨が、わずかに揺れる薬品庫のドアの隙間から、ひゅう、と細い音を立てていた。
「ええ。この嵐の中、裏庭に落ちていたという医療用チューブ。それが、何を示しているのか。もう少し、確かめておきたい」
氷室は、薬品庫のドアを開け、その奥へと足を踏み入れた。薬品特有の消毒液の匂いが、わずかに鼻を突く。橘もそれに続いて中に入った。
狭い通路の先には、裏庭へと続く鉄製のドアがあった。ドアのガラス部分には、雨粒が激しく打ち付け、外の光をぼんやりと歪ませている。氷室はドアの鍵を確認し、ゆっくりと施錠を解除した。
「このチューブは、所長室では使われていなかったはずです」
氷室は、ドアを開け、一歩外へと踏み出した。春の嵐が、容赦なくその身に吹き付ける。冷たい雨が顔に当たり、スーツの肩を濡らした。しかし、氷室は顔色一つ変えず、庭の隅に目を凝らした。
「ええ。しかし、それがどこから来たのか。そして、なぜ裏庭に捨てられていたのか。そこには、まだ見えていない何かがある」
橘も外に出て、体を震わせた。風が強く、傘をさすことすら躊躇われるほどの勢いだ。
「この天気では、足跡も流されてしまいますね」
「すでに、多くのものが流されているでしょう。しかし、それでも残るものもある」
氷室は、裏庭の隅に置かれた、普段はあまり使われないような古びた物置小屋の方へと歩き出した。その足元には、泥と化した土が広がり、雨水が小さな水たまりを作っている。物置小屋の壁には、蔦が絡みつき、風に煽られてしなっていた。
「物置小屋、ですか。何か、関係が?」
橘は、風で乱れる髪を押さえながら、氷室の背を追った。
「古いものほど、多くの記憶を宿すものです」
氷室は物置小屋の鉄製の扉に手をかけた。錆びついた取っ手が、ひやりと冷たい。軋むような音を立てて扉を開けると、中からは埃と湿気が混じった、独特の匂いが流れ出した。
薄暗い小屋の中には、使われなくなった園芸用品や、錆びた農具、そしていくつかの木箱が積み重ねられている。その奥に、黒ずんだ防水シートが、何かの塊を覆うように置かれていた。
氷室は、その防水シートにゆっくりと近づいた。彼の瞳は、薄暗闇の中でも、鋭い光を放っている。
「これは……」
橘は思わず声を上げた。防水シートの下から、何かの金属が鈍く光っているのが見えた。
氷室は何も言わず、その防水シートの端を掴み、ゆっくりと持ち上げた。
現れたのは、古びた発電機だった。しかし、その表面には、何かが激しく叩きつけられたような痕跡が、いくつも残されている。そして、その近くの地面には、微かに土に埋もれた、小さな金属片がいくつか散らばっていた。
氷室は、その金属片の一つを拾い上げた。指で軽く擦ると、それが何かの留め具の一部であるのが分かった。
「この発電機が、事件と関係があるのでしょうか」
橘は、全身に鳥肌が立つような感覚に襲われた。この場所で、一体何が起こったというのか。
氷室は、その金属片を掌に乗せたまま、発電機の傷跡をじっと見つめている。その表情は、依然として冷静さを保っていたが、彼の視線は、確かに何かを捉えていた。
外の嵐は、さらにその勢いを増しているようだった。風がうなり、雨が叩きつける音が、物置小屋の中にまで響いてくる。この閉ざされた空間で、まだ解き明かされていない秘密が、息を潜めている。