橘は氷室の隣で、早乙女葵の表情を注意深く観察していた。氷室は先ほどから、神崎所長の書斎で見つかった懐中時計について尋ねていた。懐中時計は、島の標準時刻より五分進んでいた。
「早乙女さんは、所長が時間を気にされる方だと仰っていましたね。」氷室の声は、いつものように穏やかだった。
早乙女は、膝の上で組んだ手をぎゅっと握りしめた。彼女の視線は、氷室の顔からわずかにずれ、部屋の隅にある観葉植物へと移った。
「はい、そう…ですね。所長は、非常に几帳面な方でしたから。時間には、特に厳しかったと記憶しています。」
彼女の声は、僅かに上ずっていた。
「では、あの懐中時計の五分のずれについては、何かお心当たりが?」氷室は、懐中時計を指先で軽く叩く仕草をした。
早乙女は口を開きかけたが、言葉が出てこない。一瞬、喉の奥で詰まったような音がした。
「いえ、その…全く、ございません。所長が、ご自身の時計をずらしておく、などということは…考えられません。」
彼女は、そう言い切った後に、右の薬指で左手の甲を撫でた。その指の動きは、不自然にゆっくりとしていた。
「考えられない、と。」氷室は、早乙女の言葉を繰り返した。その声には、何の感情も読み取れない。
「はい。所長は、時間には正確でした。会議も、診察も、全て時間通りに。だから、あの時計が…なぜ、そのように進んでいたのか…私には、理解できません。」
早乙女は、語尾を濁した。彼女の視線は再び氷室へと戻ったが、その瞳は泳ぐように揺れていた。
橘は、早乙女の言葉の端々に微かな違和感を覚えた。神崎所長が几帳面だったという証言は、他の者からも得ていた。しかし、その几帳面さが、なぜ懐中時計の五分のずれと結びつかないのか。むしろ、几帳面な人間であればこそ、時間のずれに敏感であるはずだ。
氷室は、早乙女の言葉の矛盾を指摘する代わりに、別の質問を投げかけた。
「所長が、書斎で何か特別な作業をされることはありましたか?例えば、夜遅くまで、誰にも邪魔されずに集中するような。」
早乙女は、かすかに首を傾げた。
「特別な作業、ですか…?いつも、診療所の経営に関する書類や、古い資料を整理されていましたけれど…。」
彼女は、そこで言葉を区切り、何かを思い出すように天井を仰いだ。
「あ…そういえば、一度だけ、随分と神経質になられていたことがありました。確か、先週の火曜日だったでしょうか。書斎にこもりきりで、夕食も取らずに、何かを…調べていらっしゃるようでした。」
「火曜日、ですか。」氷室は、手元のメモに何かを書き込んだ。
「その際、所長は何か変わった様子でしたか?」
「ええ。いつもは、もう少し…鷹揚な方なのですが。その日は、妙に落ち着かないご様子で。時々、独り言を仰っているのが、廊下まで聞こえてきました。」早乙女は、そう言って、もう一度、無意識に左手の甲を撫でた。
橘は、早乙女の証言が、神崎所長の「几帳面さ」という人物像と、奇妙な不協和音を奏でているように感じた。正確な時間を重んじる人物が、進んだ時計を放置する。そして、普段は鷹揚な人物が、ある日突然、神経質に独り言を漏らす。どちらも、早乙女が語る神崎所長の姿とは、どこか食い違っている。
氷室は、早乙女の顔をじっと見つめた。
「その火曜日の夜、所長は書斎に何時間ほど籠もっていらっしゃいましたか?」
「ええと…確か、午後七時頃から、私が診療所を出る午前零時過ぎまで、ずっと書斎にいらっしゃいました。間に、沢村さんが何度かお茶を差し入れていたようですが、ほとんど返事もなかったと聞きました。」
早乙女は、記憶を辿るように、ゆっくりと話した。
「午前零時過ぎまで、ですか。」氷室は、その言葉を反芻した。
「その間、書斎から何か物音は聞こえませんでしたか?例えば、何かを叩くような音や、物を動かすような音など。」
早乙女は、小さく首を振った。
「いえ、特に。ただ、時折、紙をめくるような音や、ペンが走るような音が聞こえるくらいで。あとは、所長の独り言が、かすかに。」
氷室は、それ以上は尋ねなかった。彼はメモ帳を閉じ、早乙女に礼を述べた。
「ありがとうございます、早乙女さん。大変参考になりました。」
早乙女は、椅子から立ち上がると、深々と頭を下げた。その動きは、どこか強張っているように見えた。彼女は、氷室と橘から目を逸らし、足早に部屋を出て行った。
橘は、早乙女の背中を見送った後、氷室に視線を向けた。
「氷室さん、彼女の証言…」
氷室は、橘の言葉を遮るように言った。
「橘くん、君も何かを感じたはずだ。」
「はい。所長の几帳面さ、という言葉と、あの懐中時計のずれ。そして、先週火曜日の所長の様子。どれも、彼女が語る所長の人物像と、どこか噛み合わない。」
橘は、メモ帳を開き、早乙女の証言を書き留めた部分に印を付けた。
氷室は、書斎の図面を広げた。
「神崎所長が、普段と異なる行動を取っていた火曜日。そして、五分進んだ懐中時計。この二つが、果たして無関係でしょうか。」
彼の指が、書斎の窓枠と、暖炉の位置をなぞった。彼の表情は、思考の深みに沈んでいた。
「もう少し、他の証言も洗い直す必要がありそうですね。特に、火曜日の夜の診療所の状況について。」