第25節
東野悟の動揺

薬局の奥にある小さな休憩室で、氷室と橘は東野悟と向かい合っていた。東野は、白衣のポケットからスマートフォンを出し入れする癖を見せていた。その指先が、絶えず何かを探るように画面をなぞる。

氷室は、手元のメモに視線を落とした後、ゆっくりと顔を上げた。その観察力のある瞳は、東野の神経質そうな表情をまっすぐに捉えた。

「東野さん」氷室は静かに切り出した。「先日の夜、神崎所長が亡くなられた晩のことですが、改めていくつかお伺いしたい。」

東野は、指先でスマートフォンの画面をなぞりながら、小さく頷いた。

「所長は、日頃から書斎で多くの時間を過ごされていましたね。暖炉を使う習慣はありましたか?」

「ええ、冬場はよく。でも、あの夜は嵐でしたから、火を焚く必要はなかったのでは…」東野は言葉を濁した。

氷室は、椅子からわずかに身を乗り出した。その動きで、二人の間の距離がわずかに縮まる。

「では、窓についてはどうでしょう。所長は、書斎の窓を開けることはありましたか?」氷室の声は、一段と低くなった。

東野は、スマートフォンの画面を見るのをやめ、氷室の視線から逃れるように目を泳がせた。「窓、ですか? あまり、覚えていません。いつも閉まっていたような…」

「いつも、ですか。」氷室は言葉を繰り返した。「しかし、あの晩は、激しい雨風でした。もし窓が開いていれば、雨が吹き込んだはずです。」

東野は口元をきゅっと引き結んだ。「それは…そうですね。だから、閉まっていたはずです。あの嵐の中、開ける人なんていませんよ。」

橘は、東野の様子を注意深く見守っていた。東野の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。

氷室は、さらに一歩、東野に近づくように体を傾けた。彼の観察力のある瞳は、東野の顔から一切離れない。

「東野さん、あなたは、あの夜、診療所の裏庭に落ちていた医療用チューブについて、何か心当たりはありますか?」氷室の声は、ほとんど囁くような低さだった。

東野の顔色が変わった。「医療用チューブ? 裏庭に…ですか? いえ、全く。私は薬局の人間で、器具の管理は沢村さんの担当ですから。」

「しかし、あなたは薬剤師です。医療器具全般に詳しいでしょう。」

「詳しいと言っても、それは薬に関することであって…」東野は焦ったように弁解した。「チューブの種類なんて、星の数ほどありますし、裏庭に落ちていたものが何だったのか、私には…」

氷室は、微かに顎を引いた。「裏庭で見つかったのは、通常の診療で頻繁に用いられるものではありませんでした。むしろ、特定の処置に使うような、少し特殊なものです。」

東野は、唇を噛んだ。彼の視線が、薬局の棚に並んだ様々な医療品をちらりと捉えた。
「特殊な…ですか。しかし、私は薬剤師ですから、薬の知識はあっても、器具の専門家ではありません。」

「しかし、この診療所で、その『特殊な』チューブを扱う可能性があるのは、限られた人間でしょう。」氷室は、東野の反応を待つように、沈黙を置いた。

橘は、東野の顔がさらに青ざめていくのを感じた。

「…沢村さんなら、ご存知かもしれません。看護師長ですから、器具の管理は彼女が…」東野は、別の人物に責任を転嫁しようとするかのように、沢村の名前を口にした。

氷室は、その言葉を遮るように、静かに尋ねた。「沢村さんは、あの夜、ずっと診療所内にいました。裏庭にチューブを落とす機会は、ほとんどなかったはずです。」

東野は、言葉に詰まった。

「では、所長は?」氷室は続けた。「神崎所長は、ご自身の書斎で、そうした特殊な医療器具を扱うことがありましたか?」

東野は、首を横に振った。「いいえ、まさか。所長はもう、臨床の第一線からは退いておられましたから。書斎で医療器具を扱うなんて、聞いたことがありません。」

「しかし、裏庭に落ちていたのは、紛れもなく医療用チューブです。」氷室は、再び東野の目を捉えた。「どこから来たのか、なぜそこに落ちていたのか、あなたは本当に何も知らないと?」

東野は、両手を膝の上で固く握りしめた。彼の指の関節が白くなっている。スマートフォンの存在が、まるで彼を慰めるかのように、ポケットの中でわずかに膨らんでいた。

「私は…その、本当に…」東野の声は、か細く震えた。

「東野さん、あなたは、あの夜、スマートフォンで誰かと連絡を取っていましたね。」氷室は、再び視線を東野の目に固定した。

「ええ、先ほども申し上げたように、家族と…」東野は、反射的にスマートフォンをポケットにしまい込んだ。その動きは、どこか隠すような素振りにも見えた。

「通信が困難な状況で、なぜそこまでして連絡を取る必要があったのですか?」氷室は、さらに一歩踏み込んだ。彼の声は、もはや囁きではなく、しかし、その低さは変わらなかった。

東野は、顔を伏せたまま、震える声で言った。「それは…心配をかけたくなかったからです。嵐で孤立していると知ったら、家族が…」

「家族に、何を心配させたくなかったのですか?」氷室は、東野の言葉の裏を探るように、さらに深く問いかけた。「単に嵐で足止めされていることだけですか? それとも、何か別の、もっと個人的な事情を?」

東野は、顔を上げた。その神経質そうな表情は、恐怖と困惑に歪んでいた。彼は、何かを言おうと口を開いたが、すぐに閉じた。

「東野さん、あなたは本土への異動を強く希望していましたね。」氷室は、話題を切り替えた。「神崎所長とは、その件で意見の対立もあったと聞いています。」

東野は、はっとしたように氷室を見つめた。「それは…個人的な事情です。事件とは関係ありません。」

「関係ない、と言い切れますか?」氷室は、東野の言葉を繰り返した。「所長が亡くなられたことで、あなたの異動は、より現実的になったのではないでしょうか。」

東野は、激しく首を横に振った。「そんな! 私は、決して、所長の死を望んでなどいません!」

「望んではいない、と。しかし、結果として、あなたにとっては都合の良い状況になった。」氷室は、東野の反論を冷静に受け止めた。「あなたは、あの夜、誰とも会っていませんか? 所長以外に、診療所の誰とも。」

東野は、目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。「いいえ。私は、自分の部屋にいました。嵐がひどかったので、誰とも会っていません。」

「本当に、誰とも?」氷室は、最後の確認をするかのように、もう一度、東野の目に視線を固定した。その瞳は、まるで彼の心の奥底を見透かすかのように、鋭く光っていた。

東野は、それ以上言葉を発することができなかった。ただ、かすかに震える唇を固く結び、氷室の視線から逃れようと、顔をわずかに背けるだけだった。彼の神経質そうな表情は、もはや隠しようのない動揺を示していた。