第24節
進む時計と燃え尽きた薪

神崎所長の書斎は、凍てつくような静けさに包まれていた。窓の外では、春の嵐が吹き荒れ、時折、風が唸るような音を立てていた。本土との連絡が途絶え、孤立した島の現実は、この閉ざされた空間にも重くのしかかる。

氷室は、デスクの引き出しから見つかった年代物の懐中時計を手のひらに乗せ、そのずしりとした重みを確かめるように静かに眺めていた。文字盤は白磁で、ローマ数字が刻まれている。時針と分針は、午後十時二分を指していた。

「所長は、この時計をいつも身につけていらっしゃいましたか?」

氷室の声は書斎の静寂に吸い込まれるように響いた。隣に立つ事務員の早乙女葵は、かすかに首をすくめた。白いシンプルな制服に身を包んだ彼女は、どこか怯えた様子で、氷室の観察力のある瞳から視線を逸らした。

「ええ、ほとんど肌身離さず、という感じでした。特に診察の時や、外部の方との打ち合わせの際は、必ず。時間の管理には、人一倍気を配る方でしたから」

早乙女の声には微かな震えがあった。橘は、胸ポケットから取り出したメモ帳を広げ、ペンを走らせる。その視線は、懐中時計と早乙女の表情の間を行き来していた。

「時間は正確でしたか?」

氷室が問うと、早乙女は困惑したように眉を寄せた。

「それが……少しばかり、進めていらっしゃるようでした。ほんの数分、ですが。いつも」

橘の手が止まる。ペン先が紙面から離れた。
「数分、ですか。それは、常に、ですか?」

「はい。以前、私が『少し進んでいますね』と申し上げたことがあって。その時、所長は『急な来客や予期せぬ事態に備えて、常に心に余裕を持つための私なりの流儀だ』と、おっしゃっていました。時間に厳格な方でしたから、遅れることを嫌っていたのだと思います。他の置き時計や壁掛け時計は正確に合わせられていましたが、この懐中時計だけは、少し進んだままでした」

早乙女は、言葉を選びながら丁寧に説明した。その口調には、神崎所長への敬意が滲んでいる。氷室は懐中時計の蓋をゆっくりと閉じた。カチリ、という微かな音が響く。

「なるほど。几帳面な方だったのですね。そして、ご自身の時間に対する独特の哲学をお持ちだったと」

氷室はそう言って、時計を元の場所、デスクの上に置いた。彼は眼鏡のブリッジをそっと押し上げ、顎に手を当てた。

「ですが、なぜこの懐中時計だけを、数分進めていたのでしょう? 他の時計は正確だったと。急な来客に備えるなら、診察室の時計なども進めておく方が理にかなっているような……」

橘が、メモ帳から顔を上げて尋ねた。好奇心に満ちた表情の奥に、わずかな疑問が浮かんでいる。彼の視線は、再び懐中時計に戻っていた。

氷室は、デスクに置かれた時計に一瞥をくれた。彼の視線は、一瞬、時計の表面を滑る。

「さあ。それは神崎所長にしか分からないことでしょう。あるいは、彼の流儀だったのかもしれませんね。人はそれぞれ、奇妙なこだわりを持つものです。特に長年同じ習慣を持つ人間であれば、その理由を他人が理解できないことも珍しくありません」

氷室はそれ以上、懐中時計について言及しなかった。彼の興味は既に別の場所に移っているようだった。彼は顔を上げ、書斎の窓の方へ視線を向けた。雨に濡れた窓枠が、薄暗い光の中で鈍く光っている。窓ガラスには、雨滴がいくつも張り付いていた。

「窓の状態は、いかがでしたか。発見された時も、内側から施錠されていましたか?」

氷室の問いに、早乙女は即座に頷いた。

「はい。鍵はきちんと、ここに。内側からしっかりかかっていました。窓枠に雨水が流れ込んだ形跡も、絨毯を濡らした様子もありませんでした」

早乙女は窓の下に広がる、厚手の絨毯を示した。確かに、その部分に水の染みは見当たらない。湿気を感じさせる様子もない。

「そうですか。では、この部屋で他に何か、気になる点はありましたか? 例えば、物が動かされていたり、不自然なものが置かれていたり、といったことは」

氷室は窓から視線を外すと、部屋全体をゆっくりと見回した。早乙女は首を横に振る。

「いいえ。特に……荒らされた様子もありませんでしたし。普段と変わらない、いつもの書斎、という印象でした。強いて言えば、暖炉の薪が、いつもより早く燃え尽きているように見えた、くらいでしょうか」

早乙女は、部屋の隅にある暖炉に目を向けた。その中には、炭になった薪の残骸が、確かに不自然に短く横たわっている。

氷室は暖炉を一瞥すると、それ以上追及することなく、橘に向き直った。

「橘君、そろそろ、他の皆さんの話も聞いてみましょうか。特に、昨晩の停電時の状況について、もう少し詳しく確認しておきたい」

橘は、懐中時計と暖炉の残骸に交互に視線を送り、それからメモ帳を閉じ、ペンを胸ポケットに収めた。彼はまだ、何か言いたげな表情をしていたが、氷室の言葉に頷いた。

「分かりました」

二人は早乙女に礼を言い、書斎を後にした。扉が静かに閉まる。早乙女は一人、書斎に残され、懐中時計が置かれたデスクと、雨の跡が残る窓枠、そして不自然な薪の残骸とを、再び交互に見つめていた。その表情は、やはりどこか釈然としないものを秘めているように見えた。しかし、彼女は何も口にせず、ただ静かに佇んでいた。