第23節
早乙女の微かな笑み

「早乙女さん、先日お伺いした件で、いくつか確認をさせていただきたいのですが。」
氷室は知的な眼鏡の奥で、早乙女の顔を静かに見つめた。診療所の事務室は、春の嵐が過ぎ去った後の静けさに包まれていた。早乙女はシンプルな制服に身を包み、少しおびえた様子で頷いた。
「はい、承知しております。」
その声は、前回と変わらず細く、丁寧だった。橘は手元のメモ帳に軽くペンを走らせた。
「神崎所長が書斎に戻られたのは、おおよそ夜の九時頃でしたね。その時の所長のご様子はいかがでしたか? 何かいつもと違う点は?」
氷室の問いに、早乙女は視線をわずかに落とした。
「特にございませんでした。いつも通り、静かに自室へお戻りになられました。」
「そうですか。では、所長が時間を気にされるような素振り、例えば懐中時計を取り出して見るようなことは?」
この質問に、早乙女の指先が、膝の上で僅かに震えたように見えた。彼女は顔を上げ、氷室の目を見た。その瞬間、彼女の唇の端が、ほんの僅かに持ち上がった。それは笑みと呼ぶにはあまりにも小さく、見る者によっては見過ごしてしまうほどの、微細な動きだった。
「…ええ、そうですね。**あの晩は**、**少し**…。」
彼女の言葉のテンポが、それまでの均一なリズムから、ほんのわずかに速まった。敬語の響きも、完璧な丁寧さの中に、一瞬だけ、ごく僅かな個人的な感情が滲み出たように感じられた。
「…少し、**落ち着かないご様子でした**。何度も時計をご覧になっていました。普段はあまり、そういうことはなさいませんのに。」
その言葉は、前回彼女が「特に変わったご様子はなかった」と述べた証言とは、小さなずれを孕んでいた。橘はペンを止め、早乙女の顔を凝視した。氷室は何も言わず、ただその微かな変化を見逃さなかった。
「そうですか。何度も時計を、ですか。」
氷室は静かに繰り返した。その口調は、早乙女の言葉をただ反芻しているようでありながら、その奥には、新たに与えられた情報の重みを測るような響きがあった。早乙女は再び視線を伏せ、それ以上は何も語ろうとしなかった。彼女の指先は、今度はきつく組まれていた。
「他に、何かお気づきの点は?」
氷室は畳みかけることなく、別の質問に移った。
「神崎所長が、書斎で何か特別な作業をされるようなことはありましたか。例えば、何かを熱心に調べたり、あるいは誰かと電話で話をしたりするような。」
早乙女は首を横に振った。
「書斎での作業については存じ上げません。電話も、あの日は特にありませんでした。」
「所長は、日頃から書斎の窓を開けて過ごすことはありましたか?」
橘は、ふと、以前書斎で見た窓枠の違和感を思い出し、口を挟んだ。早乙女は少し考え込むように眉を寄せた。
「所長は基本的に窓を開けることはありませんでした。書斎の暖房を好まれましたので。特に、あの嵐の晩に開けるなど、考えられません。」
「なるほど。」
氷室は短く答えた。彼の視線は、早乙女の組まれた指先から、壁にかかったカレンダーへと移っていた。カレンダーには、週ごとの担当医のシフトが鉛筆で書き込まれている。その隣には、島の行事と思しき日付が丸で囲まれていた。
「一つ、お伺いしたいことがあります。」
氷室は再び早乙女に視線を戻した。
「事件当日の夜、診療所の電気は一時的に停電しましたね。その時の状況を詳しく教えていただけますか。」
早乙女は、はっと顔を上げた。
「ええ、停電は夜の十時過ぎでした。嵐が酷かったので、仕方ないかと…。復旧には十分ほどかかりました。」
「その間、診療所内は完全に真っ暗でしたか?」
「はい、ほとんど。非常灯は点きましたが、書斎の明かりは消えていました。所長はもうお休みになっている頃だろうと、皆で話していました。」
氷室は頷いた。
「ありがとうございました。沢村さんにも、いくつかお伺いしたいことがありますので、お呼びいただけますか。」
早乙女は立ち上がり、静かに事務室を出て行った。彼女の背中には、やはり何か隠し持っているような、あるいは隠し通そうとしているような、微かな緊張が感じられた。
橘は早乙女の姿が見えなくなると、すぐに氷室に顔を向けた。
「氷室さん、あの『少し落ち着かないご様子』と『何度も時計をご覧になっていた』って、前の証言と違いますよね? しかも、あの笑み…」
氷室はカレンダーから視線を外し、橘にゆっくりと向き直った。
「ええ、少しね。人は、一度話したことを、後から修正することがある。それが意図的なものか、あるいは単なる記憶の齟齬か。ただ、あの微かな表情の変化は、彼女が何かを『意識』している証拠にはなるだろう。」
氷室の指先が、カレンダーの特定の日付をなぞった。それは事件の発生した日だった。
「そして、停電の件。ちょうど所長が書斎にいた時間帯の可能性が高い。十時過ぎ、書斎の明かりが消え、十分間の闇。これは見過ごせませんね。」
彼はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。