書斎の空気は、前日と変わらず重く澱んでいた。春の嵐は去り、窓ガラスにはまだ無数の雨粒の跡が残っていたが、氷室は厚手のカーテンを大きく開け放った。午後の陽光が室内に差し込み、埃の粒子が光の筋の中をゆっくりと舞うのが見えた。窓の外には、荒れた海が鉛色の空の下でうねり、時折、波が岩肌を洗う鈍い音がここまで届いた。
氷室は、その窓際にぴたりと立ち、しばし外の景色を眺めた後、ゆっくりと視線を室内の窓枠へと移した。彼の知的な眼鏡の奥の目は、まるで精密機械のレンズのように、窓枠の隅々までを丹念に調べていく。橘は、その集中した横顔を隣で見ていた。氷室は身をかがめ、窓枠の右下隅に指先を伸ばした。
「橘君、ここをよく見てください」
氷室の指の先は、木製の窓枠と、アルミサッシの接する部分、特に外側に面する隙間を指していた。橘はすぐさま身をかがめ、その指の先を凝視した。陽光がその部分に当たると、ごく微細な、半透明の膜のようなものが付着しているのが見えた。それはまるで、乾いた糊の薄皮のようであり、よく目を凝らさなければ、古い汚れと見間違えてしまいそうなほど薄く、目立たないものだった。
「これは……」橘は声を潜めた。指先でそっと触れてみると、僅かに粘り気を感じるような、あるいは完全に乾燥しきっていないような、奇妙な感触があった。
氷室は眼鏡の奥の目を細め、その一点を凝視した。彼の視線は微動だにせず、まるでその薄い膜の向こうに隠された真実を無理やりに引き出そうとしているかのようだった。その顔には、いつもの冷静さの中に、わずかな、しかし確かな緊張が走っていた。橘は、氷室のその横顔に引き込まれるように、無意識に息を止めた。その視線は、接着剤の跡から窓の外へと、そして再びその薄い膜へと、何度も行き来した。
室内には、それまで僅かに聞こえていた風の音も、遠くで響く波の音も、すべてが吸い込まれたかのような重い静寂が訪れた。沢村看護師と東野薬剤師が、氷室の背後で固唾を飲んで立ち尽くしているのが気配で分かった。早乙女事務員は、少し離れた場所で、両手をきつく握りしめ、顔を伏せていた。誰もが、氷室の次の言葉を、あるいはその沈黙が破られる瞬間を待っていた。
やがて、氷室はゆっくりと指を離した。
「この薄い膜のようなものが……窓枠とサッシの隙間に、ごくわずかに残っています。これは窓が内側から施錠された後、さらに外から固定されたことを示唆している」
彼の声は静かだったが、その言葉は室内の空気を一瞬で凍り付かせた。
「外から……まさか、窓を接着剤で塞いだというのですか?」東野が震える声で尋ねた。彼の視線は、窓枠の接着剤の跡と、窓の外の景色を交互に見ていた。
「その可能性が高い。内側から鍵をかけた後、何らかの方法で外から窓を固定した。これなら、密室の謎は物理的には解けます」
氷室は窓枠から目を離し、室内を見渡した。彼の言葉は、彼自身が何か確信を得たかのように響いた。橘は、言われた通りに窓に近づき、鍵がしっかりとかかっていることを確認した。そして、窓をわずかに揺すってみる。しかし、窓はぴくりとも動かなかった。その固定は確かなものだった。
「しかし、どうやって……外から、この二階の窓を?」沢村が呟いた。その声には、疑念と困惑が入り混じっていた。
「それはこれから調べることです。しかし、この接着剤の種類を特定すれば、犯人がどのようにして窓に到達し、作業したのか、手掛かりになるかもしれない」氷室は言った。「橘君、このサンプルを慎重に採取してください。東野さん、診療所に何か、特殊な接着剤のようなものはありますか?日用品ではない、例えば医療用のものなど」
東野は首を横に振った。
「いえ、特に変わったものは……一般的に使われる接着剤はありますが、窓を固定できるような強力なものは、置いていません。医療用となると、絆創膏などを貼るための粘着剤くらいで……」
氷室はわずかに眉をひそめた。
「そうですか。では、念のため、診療所内の接着剤の在庫、および関連すると思われる粘着剤の類を全て確認してください。特に、使用済みのチューブや容器など、残骸がないか」
「承知いたしました」東野は硬い声で答えた。彼はすぐにでもその作業に取り掛かりたい様子で、落ち着かない視線を周囲に走らせた。
氷室は再び窓枠に視線を戻し、指先で残された薄い膜をそっと撫でた。その目は、まだ何かを問いかけているようだった。しかし、その場の全員は、その接着剤が、密室を成立させた「外からの固定」の証拠だと受け止めていた。