第21節
東野悟の動機と隠し事

潮風診療所の待合室は、嵐が去った後も鉛色の空を映す窓のせいで、どこか薄暗かった。壁に掛けられた古びた世界地図だけが、わずかに色を添えている。氷室は、正面の椅子に座る東野悟に視線を向けたまま、静かに口を開いた。

「東野さん。あなたは以前、神崎所長と本土への異動について口論になったと伺っています。それは、事実ですか」

橘は、傍らでメモ帳を構え、東野の表情を注意深く観察していた。東野は、きまり悪そうに膝の上で指を組み、わずかに俯いた。

「ええ、まあ……そういうことも、ありました」

声が、いつもより一段と低い。氷室は表情を変えず、さらに尋ねた。

「所長は、あなたの異動を認めなかった。それについて、あなたは不満を抱いていましたか」

東野はゆっくりと顔を上げた。その瞬間、彼の頬に、さっと血が上るのが見て取れた。顔色は、先ほどまでと明らかに違う。

「不満……というよりは、理由が、納得できなかったんです。この島に、僕がいる必要はないと、僕は思っていましたから」

言葉の端々に、わずかな苛立ちが滲む。氷室は一度、橘の方へ視線をやった後、再び東野へと戻した。

「必要がない、とは。具体的に、どういう意味ですか」

「僕は薬剤師です。島の規模を考えれば、僕でなくても、他にやりようはあったはずです。この潮風診療所には、もう何年も、新しい薬の導入も、システムの刷新もありませんでした。僕は、もっと、本土で自分のスキルを活かしたかったんです」

東野の声は、語気が強くなるにつれて、わずかに上擦り始めた。彼の両手が、膝の上でぎゅっと固く握りしめられる。指の関節が白くなっていた。

「所長は、それを許さなかった。なぜだと思いますか」

「さあ……。所長は、いつも口を濁していました。『この島には、君が必要だ』と、そればかりで。具体的に、何が必要なのか、どうして僕でなければならないのか、一度も説明してはくれませんでした」

東野は、苛立ちを隠そうともせず、言葉を続けた。彼の視線は、氷室の目からふいと逸れ、窓の外の灰色の海へと向けられた。

「僕は、ただ、この閉鎖的な場所から、早く出たかった。それだけです。口論になったのは、その思いを、所長がまるで理解してくれないと、そう感じたから……」

東野はそこで言葉を区切ると、深く息を吐いた。彼の表情は、先ほどの怒りとも取れる色から一転、どこか諦めに似た陰を帯びていた。

「所長が亡くなった日、あなたはどこで何をされていましたか」

氷室の質問は、唐突に変わった。東野は、少し間を置いてから答えた。

「僕は……夜勤でした。薬剤庫で薬の整理をしていました。誰も、見ていませんが」

「夜勤中、所長室に何か異常を感じませんでしたか」

「いいえ。何も。ただ、普段より、嵐の音がひどかったことくらいです」

橘はメモ帳にペンを走らせる。氷室は東野の顔をじっと見つめていた。彼の視線は、東野のわずかに震える喉元に固定されているようだった。

「そうですか。では、もう一つだけ。所長が本土での土地開発に関わっていたという噂については、何かご存知ですか」

東野の顔から、再び血の気が引いた。彼は瞬時に口を閉じ、言葉を選ぶように唇を噛んだ。視線は、再び宙を彷徨う。

「……いえ。僕は、全く知りません。そんな話は、聞いたことがありません」

東野の返答は、先ほどまでとは打って変わって、平坦で、感情のこもらないものだった。しかし、その声は、なぜか先ほどよりもわずかに高い。氷室はそれ以上、その質問を深掘りすることなく、静かに頷いた。

「ありがとうございます。また何かあれば、お話を伺うかもしれません」

氷室はそう言って、東野に退室を促した。東野は、ぎこちない動きで立ち上がると、無言で待合室を出て行った。その背中には、何かを隠し通そうとするかのような、硬い緊張感が漂っていた。橘は、東野の姿が見えなくなってから、小さく息を吐いた。

「氷室さん、今の……」

「ええ。彼には、隠したい何かがあるようですね」

氷室は、東野が座っていた椅子をちらりと見た。その椅子だけが、取り残されたように静かに佇んでいた。