第02節
嵐の鹿鳴島

橘健太は、揺れる船窓から外を眺めていた。灰色の空と、それに溶け込むような荒れた海。春の嵐と聞いてはいたが、想像以上の荒々しさだった。船体は軋み、時折、甲板に波が打ち付ける音が響く。船室は閑散としており、乗客のほとんどは、すでに到着を諦めたかのように座席で身を縮めていた。

隣に立つ氷室怜は、その激しい揺れの中でも微動だにしない。濃い色のスーツは皺一つなく、知的な眼鏡の奥の瞳は、まるで遠くの水平線を測るかのように静かだった。彼は手に持った文庫本を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。その仕草には、周囲の喧騒とは隔絶されたような、静謐な落ち着きがあった。

「氷室さん、この風、尋常じゃないですね。島に着く頃には、もっとひどくなっているかもしれません」
橘が声をかけると、氷室の視線は一瞬、橘の首元に巻かれた厚手のマフラーに留まった。橘のカジュアルな服装は、この旅の目的がレジャーであることを物語っていた。
「ええ。気象予報では、今夜には最大級の暴風になると出ていました。橘君の取材にも影響が出るでしょう」
氷室の声は、波の音にかき消されそうになりながらも、揺るぎない落ち着きを保っていた。彼は「橘君」と呼びながらも、常に丁寧な言葉遣いを崩さない。その声の響きには、一貫した論理性が感じられた。

橘は、胸ポケットから取り出したメモ帳を握りしめた。旅の途中にも何か書き留めていたのだろう。フリーライターとしての彼の習性だった。
「まさか、こんな嵐になるとは。せっかくの氷室さんの休暇が台無しですね。僕も、今回の取材、どうなることやら……」
「構いません。予期せぬ事態もまた、観察の対象です。それに、橘君の仕事も、この状況下でこそ新たな側面が見えるかもしれません」
氷室は再び窓の外に目を向けた。その観察力のある瞳は、荒れる波間の一点に吸い寄せられているかのようだった。彼の言葉は、常に現実の事象から離れることがなかった。

やがて、船は大きく速度を落とし、汽笛を鳴らした。目的地の島、鹿鳴島(ろくめいじま)の波止場が、雨と風の向こうにかすかに見えてきた。小さな島特有の、質素な桟橋が荒波に晒されている。

「着きましたね」
橘は、重い荷物を肩にかけ、船から降りた。波止場はすでに雨と風に叩きつけられ、傘を差すのも困難なほどだった。錆びついた手すりが冷たく、潮の匂いが鼻腔を衝く。波止場には迎えの車もなく、人影もまばらだった。

氷室は、薄手のトレンチコートを羽織っただけの姿で、橘の隣を歩く。その足取りは乱れることなく、まるで凪いだ水面を歩くかのようだった。彼の髪は風に煽られることもなく、ぴたりと整っていた。

「潮風診療所までは、ここからバスですか?」
橘が尋ねると、氷室は眼鏡を少し押し上げた。眼鏡のレンズが、雨粒を受けて一瞬光る。
「ええ。しかし、この天候では運行が危ぶまれますね。タクシーも、この時間では難しいでしょう。島の交通手段は限られていますから」
彼の視線は、波止場の片隅に立つ、古びたバス停の時刻表に注がれていた。時刻表のガラスは潮風で曇り、文字はほとんど読めない。その隣には、強風で傾いたままになっている自販機があった。

橘は、スマートフォンの画面を指でなぞった。電波状況はすでに不安定で、地図の表示も遅い。
「やっぱり、タクシーは捕まりそうにありませんね。診療所まで、歩くとどれくらいでしょう?」
「徒歩で三十分といったところでしょうか。坂道も多いと聞いています」
氷室は、荒れる風にスーツの裾を揺らしながらも、その姿勢を崩さない。

島に着いた途端、本土との連絡が途絶えがちになる。スマートフォンのアンテナは、時折一本立つか立たないかといった状態だった。まるで、外界から隔絶された箱庭に足を踏み入れたかのようだった。
診療所の建物は、波止場からは見えない。しかし、この島で唯一の医療機関である潮風診療所が、この嵐の中でどのような役割を果たすのか、橘には漠然とした不安があった。

橘は、濡れたメモ帳をポケットにしまい込んだ。この嵐の中、取材どころではないかもしれない。彼はちらりと氷室を見る。氷室は相変わらず、周囲の状況を冷静に観察しているようだった。その表情には、好奇心よりも深い洞察が宿っているように見えた。
「氷室さん、この状況で、本当に休暇を満喫できますか?」
橘の声には、わずかながら諦めが混じっていた。

氷室は、ふと立ち止まり、潮風が吹き荒れる方向を見据えた。彼の観察力のある瞳は、何かを捉えたようには見えなかったが、その表情には微かな緊張が走ったようにも見えた。
「これもまた、旅の醍醐味でしょう。それに、橘君。我々には、まだやるべきことがある」
彼の言葉は、嵐の音に紛れて、橘の耳には明確には届かなかった。しかし、その声の調子には、単なる休暇以上の意味が込められているように感じられた。

橘は、氷室の隣で、強まる風に身をすくめた。島の中心部へ続く細い道は、すでに雨水で川のようになっていた。彼らの足元には、波止場に打ち上げられた海藻の切れ端が、風に転がされていた。遠く、島の奥から、古びた建物の軋むような音が聞こえてくる。それは、嵐の夜に閉ざされた、この島の唯一の医療機関である潮風診療所の、どこかの窓の音かもしれない、と橘は思った。