氷室は、受付のカウンターの隅に置かれた小型の棚を指差した。そこには、いくつか古びたファイルが立ててある。
「神崎所長は、こうした私的な書類を、書斎以外に保管されることもありましたか」
早乙女葵は、氷室の視線の先を辿った。その顔に、微かな困惑の色が浮かんだ。彼女は両手を前で組み、爪先で床を小さく叩いた。
「いえ……所長は、重要な書類は全て書斎に、と常々仰せでした。ここは、いわゆる『すぐ使う』ものがほとんどで……」
早乙女の声は途中で細くなった。彼女は診療所の事務員らしく、常に整理整頓を心がけているように見えた。だが、その声には何か引っかかるものがあった。
「例えば、このファイルの中身を拝見しても?」
氷室がさらに一歩踏み込むと、早乙女は一瞬、沢村悠斗の方を見た。沢村は、少し離れた場所で医療器具の点検をしていたが、その視線に気づいたようにゆっくりと振り返った。
沢村は早乙女と氷室の間を横切るようにして、受付カウンターの前に立った。彼の清潔な看護服は、その動きに合わせてわずかに揺れた。
「氷室さん、何かお探しで?」
沢村の口元には、口角が不自然に引き上げられた笑みが浮かんでいた。それは、社交辞令としては丁寧すぎる、どこかぎこちない表情だった。彼はそのまま、早乙女が立っていた位置の前に、わずかに身を寄せた。早乙女の体が、彼の背後に隠れる形になる。
「神崎所長は、あまり細かいことを気にされない方でしたから。時に、重要なものを、うっかりここに置き忘れてしまうこともあったかもしれません。しかし、私が知る限り、そういったことはございません」
沢村の声は普段よりも一段と丁寧だったが、語尾にはどこか強い意志が込められているようだった。彼は早乙女が話そうとした「何か」を、その言葉で覆い隠したようにも見えた。彼の左手が、カウンターの上に無造作に置かれた古いクリップボードを、ゆっくりと覆った。まるで、その下に何か重要なものが隠されているとでも言いたげに。
「沢村さん。私はただ、神崎所長の日常の癖について伺っているだけです」
氷室は沢村の顔を見据えた。彼の眼鏡の奥の瞳は、感情を読み取らせない。
「ええ、存じております。ただ、早乙女はまだ若いので、所長の細かい習性まで全てを把握しているわけではございません。その点、私が長年傍に仕えておりましたので、私の方が詳しいかと」
沢村はそう言って、再び早乙女の方に目を向けた。その視線は、何かを暗に伝えるかのようだった。早乙女は、沢村の背後で小さく頷いた。
橘は、沢村の言動を注意深く観察していた。彼の表情、声のトーン、そして身体の向き。全てが、氷室の質問を遮り、早乙女を隠すための動きに見えた。沢村は、早乙女が答えを詰まらせたこと、そして彼女が口にしようとしたかもしれない「何か」を、その言葉と動作で覆い隠そうとしている。
氷室はしばらく沢村を見つめていたが、やがて視線を外し、棚のファイルをもう一度見た。
「そうですか。では、沢村さん、神崎所長がこの棚に、特に気に留めていたような物を置いたことは、一度もないと。そう断言されますか」
氷室の言葉には、詰問するような響きはなかった。しかし、その静かな問いかけは、沢村の表情をわずかに硬くした。
「はい。断言できます」
沢村は答えた。その声には、先ほどまでの丁寧すぎる響きは消え、有無を言わせぬ強い調子が混じっていた。
「なるほど」
氷室はそれ以上追及せず、棚から少し離れた。彼は橘に視線を送り、小さく顎を引いた。橘はすぐにメモ帳を取り出し、沢村と早乙女のやり取りを簡潔に書き留めた。
この棚に、神崎所長が一時的に重要な書類を隠していた可能性。そして、それを沢村が隠そうとしていること。沢村の嘘は、早乙女を、あるいは神崎所長の名誉を守るためのものか。あるいは、その両方か。
氷室は診察室の方向へ歩き出した。橘はそれに続きながら、沢村と早乙女の二人の姿をもう一度振り返った。二人は、カウンター越しにじっと氷室たちの背中を見送っていた。早乙女の顔には、まだ困惑の色が残っていたが、沢村はすでにもとの無表情に戻っていた。しかし、彼の指先が、まだクリップボードを強く握りしめているのが、橘の目には留まった。