第16節
進んだ時間

氷室は静かに問いかけた。「神崎所長は、日頃から時間に厳格な方でしたか。」

早乙女は、指先で制服の袖をいじりながら答えた。「はい、とても。特に約束の時間は、常に五分前行動を徹底されていました。来客や患者さんが遅れることを、とても嫌がる方でしたから。」

橘はメモ帳にペンを走らせた。「五分前ですか。それは徹底されていましたね。」

「ええ。ご自身の時計も、常に数分進めていらっしゃるとおっしゃっていました。正確な時間より、少し早めに動くことで、心に余裕が生まれるのだと。」早乙女はそう言って、一度息を継いだ。その際、彼女は無意識のうちに左手首のシンプルな腕時計に目を落とした。一瞬の動作だったが、その後の声の調子はわずかに早まった。「だから、私達も、所長との約束や集合時間には、特に気を配っていました。」

氷室は無言で早乙女の顔を見た。その眼鏡の奥の瞳は、まるで遠い記憶の断片を拾い集めるかのように、彼女の表情の微細な変化を追っていた。

「所長は、昨夜もその『数分進んだ時間』で行動されていたのでしょうか。」氷室の問いは、あくまで事実確認のようだった。

早乙女は小さく首を振った。「それは……存じ上げません。夜は私、通常通り八時には退勤していますので。所長はよく書斎に籠って、遅くまで作業されていましたけれど。」

「書斎での作業は、決まったルーティンがあったのですか。」

「特にこれといった決まりはありませんでしたが、お酒を嗜まれることが多く、時には遅くまで起きていらっしゃいました。夜食を運ぶこともありました。」

橘が尋ねた。「昨夜は、何か所長から指示はありましたか?」

「いいえ、全く。いつもなら、八時前に明日の予定などを確認するのですが、昨夜はそれもありませんでした。急な嵐のせいか、所長も少し早く休まれるのかしら、と思ったくらいです。」早乙女は、言葉を選びながら、ゆっくりと話した。彼女の足元が、わずかに左右に揺れた。

氷室はしばらく考え込むように視線を床に落としていたが、やがて顔を上げた。「所長の書斎の鍵は、どなたが管理されていましたか。」

「書斎は所長個人の部屋でしたので、鍵は常に所長がお持ちでした。予備の鍵は、私と沢村看護師が一本ずつ、厳重に管理していましたが、それは緊急時にしか使いません。」

「緊急時とは、具体的にどのような場合でしょう。」

「所長が倒れられた時や、大きな災害で避難が必要な時などです。これまでの十年で、一度も使ったことはありません。」早乙女は、事務的な口調で答えた。

氷室は静かに頷き、橘に視線を送った。橘はすぐにメモ帳をめくり、以前の証言と照らし合わせるように視線を動かした。

「所長が最後に書斎に入られたのは、いつ頃か、何かご存知ですか。」氷室はさらに尋ねた。

早乙女は眉を寄せ、記憶を探るように天井を見上げた。「正確な時間は分かりませんが、私が退勤する八時前には、もう書斎にいらっしゃったと思います。いつもなら、その前に一度、診察室に戻って簡単な書類整理をされるのですが、昨日は……」彼女は言葉を濁した。「昨日は、直接書斎へ向かわれたようでした。私が最後に見たのは、書斎のドアが閉まる直前の、所長の背中でした。」

「診察室での書類整理は、どれくらいの時間を要するものでしたか。」

「通常は十分から十五分程度です。日によってはもっとかかりますが。昨夜はそれがありませんでしたから、八時少し前には書斎に入られていたはずです。」

氷室は、懐からスマートフォンを取り出し、時間を確認した。画面に表示されたデジタル時計が、正確な時刻を示している。

「所長が、退勤されたスタッフの誰かに、何か時間を指定して指示を出したことは、昨夜はありましたか?」

早乙女は、再び首を横に振った。「いいえ、ありません。いつもは、明日の朝一番で、とか、何時までにこれを、といった指示があるのですが、昨夜は全く。皆、定時に帰ったはずです。」

氷室は、静かに橘と視線を交わした。
橘は、早乙女の証言を注意深くメモし終えると、顔を上げた。「ありがとうございました、早乙女さん。これでひとまず結構です。」

早乙女は小さく頭を下げ、足早に待合室を出て行った。その背中には、まだ嵐の余韻が残るような、わずかな緊張が漂っていた。

氷室は、彼女が去ったドアに目を向けたまま、静かに口を開いた。「橘君。神崎所長は、日頃から時計を数分進めていた。そして昨夜は、いつものルーティンをいくつか省略している。どう思うかね。」

「時間感覚のズレ、ですね。所長が、自分で時計を進めることで、常に余裕を持って行動していた、という早乙女さんの証言は、なるほどと思いましたが、一方で、昨夜の行動の不自然さも気になります。」橘は、メモ帳を閉じ、考え込むように顎に手を当てた。

「彼の『数分進んだ時間』が、事件にどう関わってくるのか。あるいは、関わってこないのか。」氷室は、ゆっくりと立ち上がり、待合室の窓から、鉛色の空を仰ぎ見た。まだ雨は止んでいない。