診療所の事務室は、昼間だというのに薄暗かった。春の嵐はまだ勢いを保ち、窓の外では風が唸り、時折、雨が叩きつける音が響く。氷室は、簡素なスチール製の椅子に腰掛け、早乙女葵と向かい合っていた。橘はその後ろで、メモ帳を構えている。
「早乙女さん、重ねて申し訳ありませんが、いくつか確認させてください。」氷室の声は、嵐の音にもかき消されない、落ち着いた響きを持っていた。
早乙女は、少し強張った表情で頷いた。彼女は白いブラウスにグレーのスカートという事務員の制服姿で、眼鏡の奥の瞳は、どこか怯えているようにも見えた。
「事件当夜の停電についてです。所長が発見された時間より、およそ一時間前のことでしたね。」
「はい。午後九時半頃だったかと。正確な時刻は……すみません、覚えていませんが。」早乙女は指先を組み合わせた。
「ええ、結構です。その時、早乙女さんはどちらに?」
「私は、事務室で翌日の準備をしていました。所長は書斎に、東野先生は薬剤室、沢村さんは休憩室だったと思います。」彼女は淀みなく答えた。
「停電は、突然でしたか?」
「ええ、全く何の予兆もなく、一瞬で真っ暗になりました。雷鳴がひどくて、風も強かったですから、まさか、あんなことが起きるとは……」早乙女はそこで言葉を切った。
氷室は一拍置いて、質問を続けた。「その時、雷鳴や風の音以外に、何か奇妙な音を耳にしましたか?」
早乙女は眼鏡の奥の目を瞬かせ、一度視線を床に落とした。その指先が、膝の上でかすかに震えているように見えた。
「奇妙な音、ですか……」彼女は呟くように繰り返した。
「ええ。例えば、何かが擦れるような、あるいはぶつかるような、不自然な音です。普段、診療所では聞かないような。」氷室は静かに促した。
早乙女は顔を上げ、氷室の目を見つめた。その唇が、わずかに震えた。
「いいえ、**特に**。やはり、あの晩は、雷鳴がひどくて、他には何も……」
「何も、ですか。」氷室は感情を滲ませず、その言葉を反復した。
「はい。風の音と雨の音、そして雷鳴ばかりで。それ以外は、何も聞こえませんでした。」早乙女は、今度はきっぱりと言い切った。だが、その声には、先ほどまでの僅かな躊躇いが消え失せていた。
橘は、早乙女の言葉と表情の変化を注意深く見ていた。氷室の問いかけに対し、一瞬の戸惑いと、その後の「特に」という言葉。そして、その後に続く、やや強調された「何も聞こえませんでした」という断定。まるで、何かを打ち消そうとしているかのように。
氷室は早乙女の返答に満足したかのように、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。では、別の質問です。所長が亡くなられた後、書斎の鍵はどこにありましたか?」
「鍵は、書斎の扉の内側にかかったままでした。私が最初に発見した時も、そうでした。」
「早乙女さんが、です**か**。」氷室は、その「か」にわずかな疑問を込めた。
早乙女は、はっとしたように息を呑んだ。「いえ、違います。私が発見したのは、鍵がかかった状態の扉です。中に入ったのは、沢村さんと東野先生が、窓から入ってからです。鍵は、その時に、中から開けられたと聞いています。」
「なるほど。では、早乙女さんが、書斎の扉に手を触れたのは、いつですか?」
「私が触れたのは、所長が亡くなっているのを知って、慌てて扉を叩いた時です。内側から鍵がかかっていたので、開かないとすぐに分かりました。」
「その時、扉は完全に閉まっていましたか?」
「はい。隙間なく、しっかりと。鍵も、カチャリと音を立ててかかっているのが分かりました。」
氷室は、早乙女の視線から、書斎の扉のあった方へ視線を移した。
「扉に、何か違和感はありませんでしたか?例えば、湿っているとか、普段とは違う感触とか。」
早乙女は首を傾げた。「湿っている、ですか?いいえ、特に。いつも通りでした。ただ、あの日は嵐でしたから、廊下全体が少し肌寒かったのは覚えています。」
「そうですか。」氷室はそれ以上追及せず、次の質問に移った。「所長の懐中時計についてですが、普段から正確な時間を刻んでいましたか?」
「はい、所長は時間をとても厳しく守る方でしたから、常に正確な時間に合わせていました。毎朝、新聞の時報と照らし合わせていたほどです。」早乙女はそう答えると、少し寂しそうな表情を浮かべた。
「あの夜、所長の懐中時計は、皆さんが発見した時、何時を指していましたか?」
「ええと……」早乙女は記憶を辿るように、天井を見上げた。「確か、九時四十分を少し過ぎたあたりだったと……いえ、正確には覚えていません。私は、その時、動転していて、時計の針までは見ていませんでした。」
「なるほど。では、誰が最初にその時計に触れたか、ご存知ですか?」
「それは……沢村さんか東野先生だと思います。警察の方が来る前に、確認したと聞いています。」
氷室は橘に視線を送った。橘は、手元のメモに何かを書き加えている。
「早乙女さん、本日はありがとうございました。また何か思い出すことがあれば、ご連絡ください。」
「はい……」早乙女は、小さく頭を下げた。
事務室を出て、廊下に出ると、橘がすぐに口を開いた。
「氷室さん、早乙女さんの『特に』という言葉、気になりませんでしたか?それと、鍵の話の時の『か』の問いかけ。」
氷室は立ち止まり、窓の外の嵐を見やった。
「ああ。雷鳴や風の音以外に何か聞こえたか、と尋ねた時の、あの『特に』は、何かを隠しているというよりも、一度は何かを感じ取ったが、それが取るに足らないものとして、記憶の奥に押し込んだ、という印象を受けたな。あるいは、無意識のうちに、そう思い込もうとしたか。」
「私もそう思いました。そして、鍵の話の時も、一度は自分が最初に触れたかのように言いかけて、すぐに訂正しましたよね。まるで、その時の状況を、自分にとって都合の良いように、あるいは記憶違いを、無意識に修正しようとしているかのように。」橘はメモ帳を閉じた。
「人間は、不確かな記憶を、無意識のうちに補完したり、整合性の取れるように修正したりするものだ。特に、衝撃的な出来事の後ではな。彼女の証言は、嘘をついているというよりは、記憶の曖昧さや、混乱が影響している可能性もある。だが……」氷室はそこで言葉を切った。
「何か、引っかかるものがある、と?」橘が促した。
「ああ。あの『特に』が、単なる記憶の曖昧さではない、別の何かを暗示しているような、かすかな違和感がある。そして、鍵の件も、自分が最初に触れたと、なぜ一瞬でも口にしたのか。彼女は、書斎の鍵が、内側からかかっていたことを、他の誰よりも早く、そして確信を持って知っていたように聞こえた。」
「つまり、早乙女さんは、書斎の鍵が内側からかかっているのを、他の誰よりも早く知る機会があった、と?」橘は考え込むように顎に手をやった。
「可能性は否定できない。だが、それが何を意味するかは、まだ分からん。もう少し、他の者たちの証言と照らし合わせる必要がある。」氷室は、ゆっくりと歩き出した。
「ところで、所長の懐中時計の件ですが、早乙女さんは正確な時間を覚えていないと言っていましたね。しかし、沢村さんや東野先生は、九時四十五分を指していたと、ほぼ一致していました。この違いは……」橘がメモを読み上げた。
氷室は振り向かず、ただ歩き続けた。
「その違いも、また、興味深いな。」