第11節
早乙女葵の証言

氷室 怜は落ち着いたスーツ姿で、知的な眼鏡の奥の瞳を早乙女 葵に据えていた。橘 健太は氷室の隣に座り、カジュアルな服装でメモ帳とペンを手に構えている。診療所の事務室の一角に設けられた仮の尋問場所だった。早乙女はシンプルな制服をきちんと着て、真面目そうな眼鏡の奥の目が少しおびえた様子で揺れていた。

氷室は穏やかな声で尋ねた。「神崎所長とは、最後にいつお話ししましたか。」

早乙女は視線を泳がせた。「昨日の、夕食後です。所長室に書類を届けました。先生は、書斎で何か書き物をされていました。」

橘は素早くペンを走らせた。

「その時、何か変わったことはありましたか。」氷室はさらに問う。

「いえ、特に。いつも通りでした。」早乙女は小声で答えた。

氷室は一度、早乙女から目を離し、部屋の隅にある古い書棚に視線を移した。それから再び早乙女に向き直る。「所長室の鍵は、普段どこに置いてありましたか。」

早乙女は少しだけ身を固くした。「所長がいつも持っていらっしゃいました。予備の鍵は、事務室の引き出しに。」

「それは、誰でもアクセスできる場所に?」

「いえ、私が管理していました。金庫にしまってあります。」早乙女はきっぱりと言った。

氷室はゆっくりと頷き、橘を見た。橘は、氷室が早乙女の証言のこの部分について、何の反応も示さないことに、わずかな戸惑いを覚えた。メモを取るべきか、橘はペンを握り直したが、氷室は次の質問に移っていた。

「神崎所長は、最近何か悩みを抱えている様子でしたか。」

早乙女は、質問の意図を測るように、氷室の表情をじっと見つめた。「悩んでいらっしゃったかどうかは……私には分かりません。ただ、最近、少しお疲れのご様子でした。嵐が来る前からです。」

氷室は質問の順序を唐突に変えた。「東野薬剤師とは、最近、何か話されましたか。」

早乙女は一瞬、言葉に詰まった。その間、身体をわずかに後ろに引いた。座っていた椅子が、床を僅かに擦る音がした。橘は、その小さな動きを見逃さなかった。
「東野先生とは……業務上の話はします。それ以外は特に。」

「業務上、どのような話を?」氷室は追及する。

「薬の発注について、とか……。先生は、早く本土に戻りたいと、よくおっしゃっていましたから。」早乙女の声は、少し震えていた。

「所長とは、そのことについて何か?」

「はい。東野先生が、所長に異動の件で相談しているのを、何度か耳にしました。」早乙女は視線を落とした。

氷室は早乙女の顔から視線を外し、再び書棚の方に目を向けた。その視線は、何を探しているのか、橘には掴めなかった。氷室は、早乙女のこの証言について、特に深掘りする様子を見せない。橘は、所長の死と東野の異動願がどう結びつくのか、頭の中で整理しようとしたが、氷室の質問の意図が読めず、メモを取る手が止まった。

氷室はまた、質問の順序を戻すように、最初の話題に立ち返った。「昨日の夕食後、書斎に書類を届けた時、所長はどんな様子でしたか。具体的に。」

早乙女は深呼吸をした。「……いつも通り、机に向かっていました。手元には、古い書類の束が。そして、机の端に、所長が大事にされていた懐中時計が置いてありました。」

「懐中時計ですか。」氷室は初めて、その言葉に反応を示した。知的な眼鏡の奥の瞳が、僅かに光を帯びたように見えた。しかし、メモを取る動作は見せない。

「はい。いつも身につけていらっしゃるのですが、その時は珍しく、机の上に。」

「時間は覚えていますか。」

「ええと……書類を渡したのが、八時少し前でした。時計は、八時三分を指していたように思います。」早乙女は真面目そうな眼鏡の縁に指を触れた。

橘はすぐにメモを取ろうとペンを走らせたが、氷室は早乙女の証言に対し、特に確認するそぶりも見せず、次の質問を口にした。「沢村看護師とは、最近何か変わった会話をしましたか。」

早乙女は、肩を小さくすくめた。「沢村先生は、いつも通りです。所長を心配している様子でした。」

氷室は、ゆっくりと立ち上がり、早乙女から一歩、二歩と距離を取った。尋問の場である事務室の空間が、わずかに広がる。早乙女は、その動きに合わせて、無意識に視線を追った。

「所長は、最近、古い書類をよく見ていらっしゃいましたか。」氷室は、書棚に背を向けたまま、問いかけた。

早乙女は困惑した表情で首を傾げた。「古い書類、ですか。はい、確かに。書斎には、古い資料がたくさんありました。所長は、時々、それらを広げていらっしゃいました。」

氷室は、早乙女のその答えに対して、特に反応を見せず、再び早乙女の前に戻った。その動きは、橘には、何かを確かめるようで、しかし同時に、何かを意図的に避けているようにも見えた。橘は、氷室が何を重要視し、何を軽視しているのか、その判断基準を掴みかねていた。氷室は、再び椅子に座り、早乙女の目をまっすぐに見つめた。「他に、何か気になることはありませんでしたか。どんな些細なことでも構いません。」

早乙女は、俯き、しばらく沈黙した。その真面目そうな眼鏡の奥で、目が潤んでいるようだった。
「……所長は、この診療所を、とても大切にされていました。島の皆さんのために、ずっと。」
彼女の声は途切れ途切れになった。

氷室は、早乙女の言葉を静かに受け止めていた。その表情は、何の感情も読み取れないほどに冷静だった。橘は、氷室がなぜ懐中時計の証言を深掘りしなかったのか、なぜ質問の順序を何度も変えたのか、そしてなぜ特定の情報に対してメモを取らなかったのか、その全てが分からなかった。ただ、氷室の行動には、橘が理解できない何らかの意図があるのだろう、と漠然と感じるばかりだった。