第10節
書斎の第一印象

潮風診療所の二階、神崎所長の書斎の扉が開かれた。嵐の音は幾分遠のき、しかし室内の重苦しい沈黙を強調する。氷室怜がまず足を踏み入れ、続いて橘健太がその後に続いた。部屋の中には、すでに顔色の悪い沢村悠斗と、震える手で壁に寄りかかっている早乙女葵がいた。

橘の視線は、部屋に入った瞬間、まずデスクの奥、壁際に置かれた小さな飾り棚に釘付けになった。そこに飾られた、手のひらほどの白い磁器の鳥の置物が、他の簡素な家具とは異質な、繊細な輝きを放っていた。その置物が、わずかに傾いているように見えた。まるで、つい先ほど誰かの手が触れたかのように。橘は無意識に、手に持っていたメモ帳とペンを握る力を緩め、書き始めようとした指先が空中で止まる。そして、深い息を静かに吸い込み、一瞬、肺に閉じ込めた。

氷室はそんな橘の様子を気にする風もなく、ゆっくりと室内を見回した。彼の視線は、まず床、次に壁、そして天井へと順序良く動いた。部屋の隅々まで、まるで写真を撮るかのように記憶に収めていく。神崎隆の遺体は、デスクに突っ伏すようにして倒れていた。背広の背が少しだけ盛り上がり、その下には胸部を深く貫いたペーパーナイフの柄がわずかに見えていた。

「この部屋は、我々が入るまで誰も触れていませんね?」氷室が静かに沢村に問いかけた。
沢村は青ざめた顔で小さく頷いた。「はい。私が発見し、早乙女さんと一緒に、すぐに扉を閉め、鍵をかけました。そのあと、氷室さんに連絡を…」
「鍵はどこにありましたか?」
「内側からかかっていて、そのまま、扉の鍵穴に刺さった状態でした」沢村は細い声で答えた。
氷室は何も言わず、扉の内側の鍵穴をちらりと見た。真鍮製の鍵が、確かにそこに刺さっている。彼は鍵には触れず、扉の枠全体を丹念に観察した。

次に、氷室の視線はデスクに移った。神崎所長の遺体の横には、数枚の書類が広げられていた。そのうちの一枚に、古びた地図のようなものが描かれているのが橘の目にも留まった。しかし、氷室はその書類には一瞥もくれず、遺体の手元へと顔を近づけた。
所長の左手首には、年代物の懐中時計が嵌められていた。氷室は時計に触れることなく、その文字盤を凝視した。秒針は動いている。しかし、示している時刻が、橘が自分のスマートフォンの画面で確認した現在時刻と、わずかにずれていることに気づいた。数分、進んでいる。

氷室はゆっくりと立ち上がった。彼の視線は、書斎の窓へと向かった。窓は二重になっており、内側の鍵はしっかりと閉まっている。その窓枠を、氷室は指先でなぞるようにして確認した。外はまだ風が強く、時折、窓ガラスを叩く雨粒の音がした。彼は窓枠の端に、視線を固定した。何かを探るように、その細部に集中している。橘には、それがただの木の枠にしか見えなかったが、氷室はそこで数秒間、動きを止めた。

「沢村さん、この窓は普段から閉め切られていますか?」氷室の声は、抑揚がなく、まるで機械のようだった。
沢村は少し考え、答えた。「ええ、所長は寒がりでしたから。特にこの時期は、嵐の日はもちろん、晴れた日でも滅多に開けることはありませんでした」
「そうですか」
氷室はそれ以上尋ねず、窓から離れた。そして、部屋の反対側にある暖炉へと歩み寄った。暖炉の中には、炭になりきらない薪が残っていた。その薪は、燃え尽きるには不自然に短いように見えた。氷室は身を屈め、燃え残りのかけらを手に取った。その表面を指で軽く撫で、何かを確かめるように、じっと見つめていた。橘は、その一連の氷室の行動を、ただひたすらに見守るしかなかった。言葉を発することもなく、ただ事実だけを拾い集めるその姿は、まるで精密な機械のようだった。