潮風診療所の待合室は、春の嵐の音を吸い込んだように静まり返っていた。窓の外では、時折、唸るような風が吹き荒れ、叩きつける雨粒がガラスを震わせる。本土との連絡船は今朝から欠航が決まり、この孤島は完全に外界から隔絶されていた。まるで、嵐が始まる前から、何か不穏なものがこの空間を閉じ込めていたかのように。
私は、橘健太は、壁にもたれて腕を組んでいた。本来なら、氷室さんと共にこの島でのんびり過ごすはずだった休暇は、予期せぬ形で幕を開けた。二階の所長室で、神崎隆所長の遺体が発見されたという報せが、診療所内に暗い影を落としていた。
氷室さんは、私とは対照的に、待合室の中央に置かれた古びた丸テーブルの脇に立っていた。彼の着慣れた濃紺のスーツは、島の診療所という場にはいささか不釣り合いに見えるが、それがかえって彼の存在を際立たせていた。彼は無言で、壁に掛けられた島の観光ポスターを眺めている。その横顔には、いつもと変わらぬ冷静さが貼り付いていた。
彼の指が、滑らかなフレームの眼鏡のつるに触れる。わずかに位置を直すと、その奥にある瞳が、ポスターの隅々までをなぞるように動いた。観光地の案内図、特産品の紹介、そして笑顔の島民たち。ありふれた風景の中に、彼だけが何かを見つけようとしているかのようだった。
「嵐は、まだ止みそうにないですね」
私が声をかけると、氷室さんはゆっくりと振り返った。彼の視線が私を捉え、その観察力のある瞳が、私の顔色の変化を測るように一瞬留まる。
「ええ。本土からの警察が到着するのは、早くても明日でしょう」
彼の声は、凪いだ海のようだった。感情の波一つ見せない。
「密室、だそうですね」
私は、診療所の看護師や事務員たちのひそひそ話から聞きかじった情報を口にした。
氷室さんは、肯定も否定もせず、ただ小さく頷いた。
「所長室は、内側から鍵がかかっていたと」
「そのようです」
彼は、再びポスターに目を戻した。今度は、ポスターの端に貼られた、手書きの「本日の外来診療は休診いたします」という張り紙に視線を固定する。日付は今日だ。
「診療所の職員は、全員揃っていますか?」
氷室さんの問いに、私は「はい」と答えた。
「看護師の沢村さん、薬剤師の東野さん、事務員の早乙女さん。それから、たまたま薬を取りに来ていた漁師の南原さん。全員、ここにいます」
彼らの顔が脳裏に浮かんだ。皆、不安と動揺を隠せない様子で、別の部屋に集められている。
「彼らから、何か話は聞きましたか?」
「いえ、まだ。ただ、神崎所長は、昨夜からずっと所長室にいたと…」
私は言い淀んだ。彼らの話は断片的で、確かな情報はまだ得られていない。
氷室さんは、ポスターから視線を外し、今度は待合室の隅に置かれた、古びた木製ベンチに目を向けた。そのベンチの座面には、擦り切れた箇所がいくつか見られる。
「神崎所長が、最後に目撃されたのはいつでしたか?」
彼の問いは、穏やかだが、核心を突くものだった。
「昨日の夜、九時頃だと。看護師の沢村さんが、就寝前の巡回で、所長室の明かりがまだついていたのを見たそうです。それ以降は、誰も所長室の扉を開けていないと」
私は、自分のメモ帳とペンを握りしめた。フリーライターとしての習性で、いつの間にか情報を整理しようとしていた。
「そして、今朝、所長が出勤してこないのを不審に思った事務の早乙女さんが、鍵を壊して部屋に入ったと」
氷室さんは、ベンチから視線を離し、待合室の天井を見上げた。蛍光灯のカバーには、小さな虫の死骸がいくつか張り付いている。
「鍵を壊して、ですか」
彼の声に、わずかな疑問が滲んだ。
「ええ。合鍵は、神崎所長が常に携帯していたそうですから。でも、その鍵は、遺体のそばにはなかったと」
私の言葉に、氷室さんの観察力のある瞳が、再び私の顔をじっと見つめた。
「その鍵は、まだ見つかっていない、と」
氷室さんは、ポスターの隅に目を向けた。そこには、小さな文字で「潮風観光協会」と印刷されている。彼は、その文字を指先でなぞるようにした。
「まずは、発見時の状況を、もう少し詳しく聞きましょう。早乙女さんと、最初に現場に入ったという沢村さん、東野さんから」
氷室さんの言葉は、次の行動を明確に示した。待合室に漂っていた重苦しい空気が、わずかに引き締まったように感じられた。
私は頷き、彼の後ろを追った。診療所の廊下は、嵐の音を遠ざけ、一層の静寂に包まれていた。