船長室での初動捜査を終え、白神は深町と共に一度ブリッジへと戻っていた。嵐は依然として船体を揺らし、窓の外は鉛色の空が荒れ狂う海と境なく続いていた。海堂船長の死が船内に与えた衝撃は大きく、乗員たちの間には目に見えぬ動揺が広がっている。しかし、業務は止まらない。船は進み続けなければならない。
ブリッジの一角に設けられた仮の尋問スペースには、すでに何人かの乗員が集められていた。最初に呼ばれたのは、豪華客船オーナーの秘書である橘美咲と、船内バーテンダーの青葉拓也だった。
橘美咲は、細身のスーツを完璧に着こなし、首元のブランド物のスカーフがわずかな揺れの中で品良く動く。彼女の姿勢は微塵も崩れることなく、背筋を伸ばし、顔には完璧なメイクが施されていた。その口元には常に柔らかな笑みが浮かんでいるが、その眼差しは、尋問の前に深町が用意した飲み物にさえ、一切の関心を示さなかった。
「橘さん、そして青葉さん。お忙しいところ申し訳ありません」
白神は前置きもなく、簡潔に切り出した。深町は手帳を広げ、ペンを構える。
「いえ、当然のことかと存じます。海堂船長には、大変お世話になっておりましたので」
橘は淀みなく答えた。その声は落ち着いていて、感情の起伏が感じられない。
青葉拓也は、洗練されたバーテンダーの制服を身につけていた。白いシャツは糊が効いてぴんと張り、黒いベストと蝶ネクタイも乱れがない。その顔にはいつものように人好きのする笑顔があったが、その視線は時折、橘の顔へと向かい、すぐに逸らされた。彼の器用な手は、テーブルの上に置かれたグラスの縁を無意識になぞっていた。
「青葉さんも、海堂船長とは長いお付き合いでしたか」
白神が青葉に問いかけた。
「ええ、この船が就航した時からですから。船長には、色々とご指導いただきました」
青葉は答えた。彼の声は橘よりもわずかに硬く、笑顔の裏に隠された緊張を深町は感じ取った。
「橘さん、海堂船長とは、オーナーとの連絡以外に個人的な交流はありましたか?」
白神の視線が橘に移る。
橘は微笑みを深めることなく、真っ直ぐに白神の目を見返した。
「個人的な交流、でございますか。仕事上、船長とは密に連携を取ることが多くございました。オーナーの意向を伝えるだけでなく、船の運営についてご意見を伺うことも。時には、プライベートな時間に食事を共にする機会もございましたが、それはあくまで、円滑な業務遂行のためと認識しております」
彼女の言葉は慎重に選ばれているのが見て取れた。曖昧さを許さない、しかし否定も肯定もしない、絶妙な表現だった。
深町は橘の言葉を速記しながら、ふと顔を上げた。彼女の言葉からは、海堂船長との関係に対する特定の感情が読み取れない。ただ、その完璧な笑顔と、言葉の選び方から、彼女が自分の立場を非常に良く理解していることだけは伝わってきた。
「青葉さん、あなたは以前、海堂船長との間で金銭的なトラブルがあったと聞いていますが、事実ですか?」
白神は唐突に、青葉に向かって核心を突くような質問を投げかけた。
青葉の笑顔が、わずかに凍りついた。彼の指がグラスの縁をなぞる動きがぴたりと止まる。
「金銭トラブル、ですか……。ええ、正直なところ、以前、少しばかり。投資の件で、船長に相談に乗っていただいたことがありまして。それが、私の見込み違いで、損失を出してしまいましてね。その際、船長に助言を仰ぎ、一時的にお金を融通していただいた、という経緯はございます」
彼は視線を落とし、テーブルの木目をじっと見つめた。
「それはいつ頃の話ですか?」
白神は間髪入れずに尋ねた。
「ええと……ちょうど一年ほど前になりますでしょうか」
青葉は曖昧に答えた。
「その時の貸し借りは、もう解決しているのですか?」
深町は思わず問いかけた。白神が深町を一瞥したが、何も言わなかった。
青葉は顔を上げ、再び人好きのする笑顔を貼り付けた。
「ええ、もちろん。もうとっくに清算済みです。船長には本当に感謝しております。今回のことは、本当に残念でなりません」
彼の言葉は一見、何の含みもないように聞こえる。しかし、深町には、その「清算済み」という言葉の響きが、どこか不自然に感じられた。まるで、その事実を殊更に強調しているかのように。
橘は、青葉の言葉を聞きながら、静かに、しかし明確に視線を青葉へと向けた。その完璧な笑顔は崩れないまま、だが、その目には一瞬、冷たいものが宿ったように深町には見えた。それは、まさしく「対立の芽」が、その場に顔を出した瞬間だった。
「橘さん、船長が何か特別なものを気にしている様子はありませんでしたか?例えば、個人的な手紙や、何か隠している物など」
白神は再び橘に話を向けた。
橘はわずかに首を傾げた。
「特別なもの、でございますか……。船長は常に、私物には細心の注意を払っていらっしゃいました。ご自身の書斎、つまり船長室の奥にある小さな部屋は、特に他人を入れることを嫌っておられましたね。ただ、手紙や隠し物、という具体的な情報はございません。船長は過去の航海に関する古い記録を大切にしていらっしゃいましたが、それらは全て公開されているものだと存じます」
白神は手帳に何かを書き込んだ。
「船長の懐中時計が、実際の時刻より15分進んでいたことについて、何かご存知ですか?」
橘は、初めてわずかに表情を変えた。眉がごくわずかに上がる。
「15分も、ですか?それは存じませんでした。船長は時間を非常に厳しく守る方でしたので、少々意外でございます。ただ、個人的な持ち物の時刻合わせについては、特に指示を受けたことはございません」
彼女は言葉を選びながらも、この情報には関心を示した。
青葉は、白神の質問にも橘の答えにも、表情一つ変えずにいた。彼の視線は再びテーブルの木目に戻り、グラスの縁をなぞる動きは完全に止まっていた。その手つきは、バーカウンターでカクテルを仕上げる際の、あの流れるような滑らかさとは対照的だった。
「橘さん、あなたは事件発生推定時刻、どこにいらっしゃいましたか?」
白神が尋ねた。
「私は、オーナーへの定時報告のため、通信室におりました。嵐のため通信状態が不安定で、担当者と調整しておりましたので、複数の人間が私の存在を証言できるはずです。その後、自室に戻り、翌日の業務資料を確認しておりました」
橘はよどみなく、まるで事前に用意していたかのように答えた。
「青葉さん、あなたは?」
白神が青葉に視線を向けた。
青葉は、ゆっくりと顔を上げた。
「私は、バーの準備を終えて、スタッフ用の休憩室にいました。シフトの交代時間で、他の者もいましたので、彼らが私の証人になるでしょう。その後、自室に戻り、少し仮眠を取りました」
彼の表情は再び人好きのする笑顔に戻っていたが、その目の奥には、どこか落ち着かない光が揺れているように深町には見えた。
二人のアリバイは、それぞれ複数の人物によって裏付けられるという点で共通していた。白神は二人の顔を交互に見つめ、それから深町に視線を送った。深町は頷き、手帳に書き留めた情報を確認する。
「ありがとうございます。本日はこれで結構です。また改めてお話を伺うかもしれませんので、その際はご協力をお願いします」
白神はそう言って、二人を解放した。
橘は一礼し、完璧な姿勢で部屋を出て行った。その背中には、一切の隙が見当たらない。青葉は、立ち上がる際、わずかにテーブルに手をついた。そして、白神と深町に頭を下げると、橘の後を追うように部屋を後にした。彼の足取りは、橘ほどには軽やかではなかった。
二人の姿が見えなくなると、深町は思わず口を開いた。
「白神さん、橘さんのあの完璧さは、ちょっと不気味なくらいですね。まるで感情がないみたいだ」
白神は手帳を閉じながら、静かに答えた。
「完璧さ、か。完璧すぎるものは、往々にして何かを隠している。青葉の金銭トラブルも興味深い。彼が『清算済み』と強調したことが、かえって気になる」
深町はハッとした。確かに、青葉の言葉には不自然な響きがあった。
「それにしても、海堂船長が時間を厳しく守る人だったのに、懐中時計が15分も進んでいたなんて……何か意味があるんでしょうか」
白神は窓の外の荒れた海に目を向けた。
「意味は、必ずある。全ては繋がっている。次は、一等航海士の黒岩に話を聞く。彼もまた、海堂船長との間に根深い確執を抱えていたと聞くからな」
彼の言葉は、これからさらに深く、船長の死の裏に隠された人間関係の闇へと踏み込んでいくことを示唆していた。嵐は、相変わらず激しく船を揺らしていた。