嵐で揺れる豪華客船『春風』。白神悠は、海堂船長の部屋近くの乗員休憩室で、深町薫と向かい合っていた。テーブルには、これまでの聞き取りメモが広がる。
深町は手帳をめくり、各人のアリバイを確認した。「黒岩一等航海士はブリッジ、篠崎船医は医務室、青葉バーテンダーはバーの在庫確認、橘秘書は自室で報告書作成。現時点では、いずれも崩れていません」。首から下げたカメラのレンズが、時折メモを反射する。
白神はコーヒーカップをゆっくり回し、一点を見据えた。「彼らの証言は、行動をなぞるだけでは不十分です。私たちは、彼らがその時、何を『見なかった』のか、『聞かなかった』のか、あるいは『聞かせなかった』のかを探る必要があります」。
その時、ドアが開き、船員・田辺(三十代半ば)が顔を覗かせた。「白神様、深町様。田辺でございます。お呼びでしょうか」。彼の制服は完璧だが、指先は襟元をまさぐり、視線は合わず、深々と頭を下げた。
「ええ、田辺さん。少しお話を伺いたい」。白神が促すと、田辺は恐縮し、膝の上で指をこすり合わせながら椅子に座った。「わたくしでお役に立てることがあれば、何なりと」。丁寧な口調だが、語尾は微かに震えている。
白神は単刀直入に尋ねた。「船長室のあるフロア担当でしたね。事件推定時刻の昨晩九時から十時の間、何か変わったことに気づきましたか」。深町はペンを構え、書き留める準備をした。
田辺はテーブルの木目を見ながら話し始めた。「昨晩は嵐がひどく、揺れも大きかったため、巡回に時間がかかりました。電灯が揺れ、足元もおぼつかないほどで…」。
「船長室の前を通ったのは、九時半頃だったかと。いつもなら、船長室からは海堂船長好みのクラシックや書類をめくる音が聞こえるのですが…」。白神は静かに続きを促す。
「その時は、波と風の唸り声ばかりで、船長室からはほとんど何も聞こえませんでした。いや、正確には、ごく小さな、何かが『擦れるような』音だけが、ぼんやりと聞こえた気がしたのです」。
「擦れるような音、ですか」。深町が思わず尋ねた。
田辺は首をすくめた。「ええ。風の音にも似ていますが、もう少し規則的で、硬いものが当たっているような…何と表現すればよいか。微かで、はっきりとは聞き取れませんでしたが、妙に耳に残りました」。
「金属が擦れる音のようでしたか?それとも布のようなもの?」。白神の質問に、田辺は指を組み考え込んだ。「どちらかと言えば、硬いもの、でしょうか。嵐の音にかき消されそうで、確信は持てません。ただ、いつもの船長室の気配とは、少し違っていたように感じました」。
白神はその証言を注意深く受け止めた。密室だった船長室内部での「擦れる音」。
「その時、船長室のドアは閉まっていましたか?」「はい、閉まっておりました。鍵がかかっていたかは…確認しておりません」。
「他に何か、気づいたことは?」。田辺は沈黙の後、おずおずと口を開いた。「そういえば、その少し前、九時過ぎだったかと、橘秘書が船長室の方へ向かわれるのをお見かけしました」。深町が顔を上げた。橘秘書は、事件推定時刻には自室にいたと証言している。
「橘秘書は、どのような様子で?」。白神の視線が鋭くなる。
「特に変わったご様子はございませんでした。いつも通りお綺麗で、足早に。何か書類を手にされていたようでしたが、すぐに船長室の方向へ歩いて行かれました」。
「船長室に入っていくところを見ましたか?」「いえ、そこまでは。私が通路の角を曲がった直後でしたので。ただ、あの時間帯に、あの場所へ向かうとなると、船長室以外に用事があるとは考えにくいかと」。田辺は、自分の言葉の重要性を自覚したのか、さらに声を小さくした。
「橘秘書は、その後、船長室から出てくるところを見ましたか?」「いえ、見ておりません。私が巡回を終え、そのフロアを離れたのは、午後十時近くでしたので」。
白神はメモ帳を取り出し、何かを書き留めた。表情は変わらないが、深町は、そのわずかな目の動きから、新たな情報が白神の思考を刺激したことを感じ取った。「田辺さん、ありがとうございました。大変参考になりました」。白神が礼を言うと、田辺はほっとしたように、深々と頭を下げた。彼の指はまだ震えている。「とんでもございません。お役に立てたのなら幸いです」。
田辺が休憩室を出ていくと、深町はすぐに白神に尋ねた。「橘秘書のアリバイに矛盾が生じますね。彼女は九時から十時の間、自室にいたと…」。
白神はカップに残ったコーヒーを一気に飲み干した。「ええ。しかも、船長室から『擦れるような音』が聞こえたという証言。これが何を意味するのか。彼女の証言と照合する必要があるでしょう」。
白神は立ち上がると、テーブルのメモを素早くまとめた。「深町さん、橘秘書に再度、話を聞く手配を。それから、船内の監視カメラ映像をもう一度、詳しく確認しましょう。特に、午後九時から九時半にかけての、船長室周辺の通路の映像を」。深町は力強く頷いた。新たな糸口が見つかったのかもしれない。