豪華客船の一等ラウンジは、夜の帳が下りた海の上とは思えぬほど、煌々たる光に満ちていた。天井からは巨大なクリスタルのシャンデリアが幾重にも連なり、その無数のプリズムが放つ光は、磨き上げられた大理石の床や、深紅のベルベットで張られた調度品に反射し、空間全体を幻想的な輝きで包み込んでいる。窓の外は漆黒の海が広がるばかりだが、ここだけは別世界のように華やかだった。
その一角、窓から少し離れた場所に置かれた重厚な肘掛け椅子に、白神悠は深く身を沈めていた。彼の端正な顔立ちには、知的な眼鏡の奥から静かな眼差しが宿り、その視線は向かいに座る人物に真っ直ぐ向けられている。白神の隣では、深町薫が膝の上に広げたメモ帳にペンを握りしめ、いつでも書き留められるよう待機していた。彼女の視線は、白神と、その対面に座る男の間を行き来している。
対面の男、青葉拓也は、船のバーテンダーの制服に身を包み、背筋をピンと伸ばして座っていた。彼の制服は完璧にアイロンがかけられ、ネクタイの結び目も寸分違わず整っている。ラウンジには、サックスとピアノが奏でる穏やかなジャズの調べが満ちているが、彼ら三人の間に流れる空気は、その心地よい音楽とは裏腹に、微かに、しかし確実に張り詰めていた。まるで、水面に張られた薄い氷のように、いつ割れてもおかしくないような緊張感が漂っている。
白神は、ゆっくりと息を吐き出すと、静かな声で問いかけた。「青葉さん。海堂船長とは、最近何か変わったことはありましたか?」彼の声は低く、しかし明確で、ラウンジのざわめきの中でもはっきりと耳に届いた。眼鏡のレンズの奥で、彼の瞳が青葉の表情を探るように細められる。
青葉は、その問いに対し、いつもの朗らかな笑顔を浮かべた。その笑顔は、まるで訓練されたかのように完璧で、少しも乱れることがない。「いえ、特に。いつもの通りでしたよ」彼の声は淀みなく、プロフェッショナルな対応そのものだった。グラスを磨く手つきのように滑らかで、一切の感情の揺れを感じさせない。「船長はいつも完璧主義でいらっしゃいましたから、私のような末端の者には、常に厳しくも公平に接してくださいました」彼はそう言い切ると、唇の端をわずかに引き上げた。しかし、その言葉の終わりで、青葉は一度だけ、素早く、ほとんど意識的ではないかのように瞬きをした。そして、テーブルの上に置かれた空のコーヒーカップの縁に、一瞬だけ、本当に一瞬だけ視線を落とした。その視線は、まるで何かを隠すかのように、すぐに持ち上げられたが、深町はそれを見逃さなかった。
深町は、メモを取る手を止め、ペンを握ったまま、少し身を乗り出した。彼女の視線は青葉の顔に釘付けになっている。「でも、海堂船長はかなり気難しい方だと聞いています。何か、個人的な相談を持ちかけられたりとかは?」彼女の声には、僅かながら探るような響きが混じっていた。彼女のペン先は、メモ帳の白いページの上で、微かに震えているように見えた。
青葉は再び顔を上げ、今度は深町の目を見つめた。その視線は、先ほどよりも少しだけ硬い。「いえ、滅相もございません」彼は即座に否定した。その言葉には、一切の躊躇がないように聞こえたが、彼の表情は微かにこわばっている。「私はただのバーテンダーですから。船長の個人的な事柄に立ち入るようなことは」彼はそこで言葉を切り、唇の端に微かな笑みを浮かべた。その笑みは、まるで固められたかのように見えた。口角は上がっているものの、目元には笑みが宿っておらず、むしろ警戒の色が濃い。彼の指先が、テーブルの縁を無意識に撫でる。
「そうでしょうか」白神は、青葉の言葉を遮るように静かに言った。彼の声は穏やかだが、その言葉には有無を言わせぬ重みがあった。「以前、船長と青葉さんの間で金銭的なトラブルがあったと伺っていますが」白神は、青葉の顔から目を離さず、その反応をじっと見守っていた。ラウンジのジャズが、一瞬だけ遠く聞こえるような錯覚に陥る。
白神の言葉が放たれた瞬間、青葉の表情が、わずかに凍りついた。彼の完璧だった笑顔が、まるでガラス細工のようにひび割れ、その奥に隠されていた動揺が露わになる。彼は右手を軽く上げ、まるで汗を拭うかのように、しかし実際には何も拭わず、ネクタイの結び目に触れた。その指先は、微かに震えているようにも見えた。「ああ、それは、ずいぶん前の話です」青葉は、努めて平静を装おうとしたが、その声のトーンはわずかに硬くなっていた。まるで、喉の奥に何かが詰まっているかのように、言葉がスムーズに出てこない。「私がまだ若く、未熟だった頃の。ええ、少しばかり、生活に困窮しておりまして……船長に助けていただいた恩があります。もう、随分と前に解決したことです」彼はそう言って、無理に笑顔を取り繕った。その笑顔は、先ほどの朗らかなものとは異なり、どこかぎこちなく、痛々しい。彼の視線は、白神の目からわずかに逸らされ、宙を彷徨っている。
その時、ラウンジの入り口から、細身のスーツに身を包んだ橘美咲が姿を見せた。彼女は、まるでこの空間に存在する他の全てを無視するかのように、手元のタブレットに視線を落とし、迷いなくまっすぐ進んでくる。彼女の足音は、高いヒールの音を響かせ、ラウンジの床に規則正しく刻まれる。彼女の顔は真剣で、一寸の隙もない。白神たちの一角に気づくと、彼女の歩みが一瞬だけ止まった。その瞬間、彼女の瞳がわずかに揺れ、白神たちのテーブルの方向へと向けられたように見えたが、それは本当に一瞬のことで、すぐに彼女は視線をタブレットに戻した。そして、橘はすぐに何事もなかったかのように歩き出し、彼らのテーブルを避けるように、大きく遠回りして奥の席へと向かった。彼女は一度も、白神たちのほうを見ようとしなかった。その背中からは、冷たい拒絶のオーラが漂っているかのようだった。
橘の姿を視界の端で捉えた青葉の笑顔が、ぴくりと揺れた。その揺れは、まるで水面に落ちた一滴の雫が波紋を広げるかのようだった。彼は、その完璧な笑顔を維持しようと努めながらも、視線を彼女の背中に向けた。その視線には、何か複雑な感情が入り混じっているように見えた。しかし、彼はすぐに白神のほうへと視線を戻した。「……橘秘書は、今日も忙しそうですね」青葉は、まるで自分の言葉が唐突に出たことに驚いたかのように、曖昧な笑みを浮かべた。その言葉は、まるで口から滑り落ちたかのように、不自然な間を伴っていた。彼の指先が、再びネクタイの結び目に触れる。
白神は、青葉の視線の動きを、その一挙手一投足を注意深く追っていた。彼の知的な眼差しは、青葉の微細な変化を一切見逃さない。「橘秘書とは、何か?」白神の声は、先ほどと変わらず静かだったが、その問いには、より一層の鋭さが込められていた。
青葉は慌てたように首を横に振った。その動きは、先ほどの落ち着き払った態度とは対照的で、明らかに動揺していることを示していた。「いえ、特に。船長を補佐する方ですから、私のような者とは、ほとんど言葉を交わすこともありません」彼の声は、わずかに上ずっていた。その言葉は、あまりにも紋切り型で、かえって不自然さを際立たせていた。
深町は、青葉の言葉と態度に、何か噛み合わないものを感じ取ったのか、白神の顔をちらりと見た。彼女の眉間には、微かな皺が刻まれている。白神は何も言わず、ただ青葉の顔をじっと見つめ返していた。その視線は、まるで青葉の心の奥底を見透かそうとしているかのようだった。ラウンジのジャズは、依然として穏やかに流れ続けている。しかし、その心地よい調べは、彼らの間に漂う重い沈黙を、かえって際立たせるだけだった。空気はさらに張り詰め、次の言葉が発せられるのを、誰もが息を詰めて待っているかのようだった。