白神 悠は船長室の重々しいドアを背に、黒岩 悟と向き合っていた。荒れ狂う波が船体を揺らし、壁に飾られた古い海図が微かに軋む音を立てる。深町 薫は部屋の隅で、スマートフォンを両手で握りしめていた。画面の光が彼の顔に青白い反射を落とす。未読通知が三件。彼はそれを確認することなく、指先でニュースアプリをスクロールした。通信状態は依然として悪く、情報更新は滞っていた。
「黒岩一等航海士」白神の声は、船の軋みにもかき消されない明確さを持っていた。「昨夜、海堂船長と口論されたと伺っています。」
黒岩は腕を組み、分厚い胸板を張った。日焼けした顔に疲労の色が濃い。
「ああ、そうだ。だが、あれはいつものことだ。船長は頑固だったからな。航路の件で意見が合わなかっただけだ。」
「航路、ですか。」白神は手帳に何かを書き留めた。「具体的には、どのような点で?」
「この嵐の中、強行突破しようとする船長と、安全を優先すべきだという俺の意見がぶつかった。ただそれだけだ。だが、最終的には船長の判断に従った。それがこの船の規律だ。」黒岩の声には、わずかながら苛立ちが混じっていた。普段の粗暴な口調に、形式的な丁寧さが薄く張り付いている。
「その口論は、何時頃のことでしたか。」
黒岩は天井を見上げた。「確か、午後九時過ぎだったはずだ。船長室を出たのは、九時半を少し回った頃だったか。その後は、ブリッジで当直についていた。当直日誌を確認すればわかる。」
深町は、その言葉を聞きながら、そっとスマートフォンの画面をタップした。船内SNSアプリのログを呼び出す。乗組員間の連絡や、簡単な業務報告に使われる非公式なものだ。嵐で外部通信が途絶した今、船内の情報源として機能していた。海堂船長の投稿は少ないが、時折、業務連絡を流すことがあった。
数分前、白神が船長室の机の上から回収した船長のスマートフォンには、昨夜九時四十分頃のメッセージが残されていた。宛先は橘 美咲。内容は「航路変更の件、承知した。詳細は明朝、改めて話そう」という簡素なものだった。
深町は白神と黒岩のやり取りを耳にしながら、そのメッセージと黒岩の証言を頭の中で照合した。黒岩は九時半過ぎに船長室を出たと言った。しかし、船長が橘にメッセージを送ったのはその十分後だ。航路変更の件で口論していたという黒岩の言葉と、船長が「航路変更の件、承知した」と秘書に送ったメッセージ。
「黒岩一等航海士は、船長室を出られた後、すぐにブリッジへ向かわれたのですね。」白神は、深町の視線に気づいたのか、やや間を置いて尋ねた。
「ああ、そうだ。嵐が酷かったからな。船長との口論で気分が悪かったとか、そんな悠長なことは言っていられなかった。」黒岩は、白神の質問にわずかに身構えるように答えた。「何か問題でも?」
深町はスマートフォンの画面を白神に見せようと、一瞬、持ち上げた。しかし、白神は首を微かに振って制止した。その意図を汲み取り、深町は再び画面を伏せた。
「いえ、確認です。ブリッジでは、どなたか他に当直されていましたか。」白神は淡々と続けた。
「もちろん、航海士が一名と、操舵手が一名。それに、機関室との連絡係もいたはずだ。」黒岩は肩をすくめた。「彼らが俺のアリバイを証言するだろう。」
白神は手帳を閉じた。「ありがとうございます。後ほど、彼らにもお話を伺います。」
黒岩は一礼すると、重い足取りで部屋を出て行った。彼の背中には、嵐の夜の重苦しさがまとわりついているようだった。
「深町君」白神は黒岩の姿が見えなくなってから、静かに深町に声をかけた。「君が見ていたのは、船長のスマートフォンのメッセージか。」
深町は頷き、再び画面を白神に向けた。
「はい。昨夜九時四十分、橘秘書宛てです。『航路変更の件、承知した。詳細は明朝、改めて話そう』と。黒岩一等航海士は、九時半過ぎに船長室を出て、航路の件で口論したと言っていました。でも、その十分後に船長は航路変更を『承知した』と送っている。これでは、まるで黒岩一等航海士が船長室を出た後に、船長が航路変更を受け入れたかのようです。」
白神はメッセージを読み、眼鏡の奥の目を細めた。
「承知した、か。確かに、口論の内容とは矛盾するな。だが、このメッセージが船長自身の意思で送られたものとは限らない。」
「と、言いますと?」
「スマートフォンは、必ずしも持ち主が操作しているとは限らないだろう。それに、このメッセージは、船長が航路変更を『受け入れた』ことを示しているが、その『承知』が、黒岩一等航海士との口論の結果なのか、あるいは別の要因によるものなのかは判然としない。あるいは、単に秘書への事務的な連絡だったのかもしれない。」白神は指先で顎を撫でた。「SNSの記録は、あくまで断片的な情報に過ぎない。決定的な証拠にはならない、ということだ。」
「でも、矛盾の芽であることは確かですよね。」深町は、スマートフォンの画面を指でなぞった。「黒岩さんの証言と、船長のメッセージ。この間に、何かがあったはずです。」
「その通りだ。重要なのは、その『何か』が何だったのか、そしてそれが事件にどう繋がるか、だ。」白神は、船長室の机の上に目を向けた。そこには、被害者が普段使っていたらしい、古びた革製の手帳が置かれていた。「まずは、船長の行動を、より詳細に追う必要がある。この手帳にも、何か書き残されているかもしれない。」
白神は手帳を手に取り、ゆっくりとページをめくり始めた。嵐の轟音が、再び部屋を満たした。船はまだ、荒波の中を進んでいた。