豪華客船『春風』の図書室は、嵐の夜の喧騒が嘘のように静まり返っていた。壁を埋め尽くす書棚の合間から漏れる柔らかな光が、深い木目のテーブルに落ち、白神悠はその上で広げた手帳に視線を落としていた。傍らでは、深町薫が船医の篠崎麗から預かった検査報告書に目を通している。
「十五分、ですか」深町が呟いた。「海堂船長の懐中時計が、発見された時の実際の時刻より、正確に十五分進んでいたと。」
白神は顔を上げず、手帳のページを指先でなぞった。「ええ。そして、船内の監視カメラの映像が、事件推定時刻の数分間だけ不鮮明だったという報告も、気になりますね。」
深町は、報告書から白神へと視線を移した。「それは、嵐のせいで電波が不安定だった、という説明でした。ですが、十五分という具体的なずれは、偶然にしては出来すぎているような……」
その時、図書室の扉が静かに開いた。入ってきたのは、橘美咲だった。彼女は細身のスーツに身を包み、いつものように完璧なメイクで、その美しさは嵐の夜の不穏さを忘れさせるほどだった。彼女は白神と深町に軽く会釈すると、何の用かと問うように、静かに二人の前に立った。
白神は手帳を閉じ、その視線を橘に向けた。「橘さん、少しお時間をいただけますか。船長室の時計について、いくつか確認したいことがありまして。」
橘は一瞬、その場でぴたりと動きを止めた。彼女の視線は白神の顔を真っ直ぐに見据え、その瞳の奥には、動揺とも決意ともつかない微かな光が宿っていた。しかし、その表情は完璧なまでに抑制され、呼吸が僅かに深くなったこと以外、何の感情も読み取れなかった。
「船長室の時計、ですか」橘の声は、いつもと変わらぬ落ち着きを保っていた。「何か、不都合でもございましたでしょうか。」
白神はゆっくりと首を横に振った。「いいえ。ただ、海堂船長の懐中時計が、実際の時刻より進んでいたものですから。船長室には、壁掛け時計と、暖炉の上に置かれた置き時計がありましたね。それらの時間は、正確でしたか。」
橘は、腕を組むようにして、僅かに顎を引いた。「ええ。私が見た限りでは、常に正確な時刻を示していました。船の運行に関わるものですから、船長は時間管理には非常に厳格でした。誤差が生じるなど、ありえません。」
「では、船内の他の時計、例えば操舵室や機関室、あるいは客室のテレビに表示される時刻などについて、橘さんは何か特別な管理をなさっていましたか?」白神は畳みかけるように問うた。
橘は再び、白神の目をしっかりと見返した。その視線は微動だにせず、まるで固く閉ざされた扉のようだった。彼女の唇が僅かに開いたかと思うと、一呼吸の間を置いて、言葉を紡いだ。「船内の主要な時計は、全て中央システムで同期されています。個別に調整するようなことは、特別な事情がない限り、ありません。」
「特別な事情、ですか。」白神は、その言葉をゆっくりと反芻した。
橘は、その問いには答えず、ただじっと白神を見つめ返した。その場に沈黙が降り、図書室の空気がわずかに重くなったように感じられた。深町は、白神と橘の間で交わされる視線に、息を詰めていた。橘の背筋はピンと伸び、その姿勢は一切の隙を見せなかった。しかし、その完璧な静けさの中に、何か張り詰めたものが感じられた。
白神は、橘の揺るがぬ視線を受け止めながら、手帳を再び開いた。彼はそこに、小さな図を描き込んでいた。船長室の窓枠に残された、微かな油の染みと細い擦り傷。そして、床に散らばったガラス片とは異なる種類の、微細なガラスの粉末。それらの断片が、彼の頭の中で、少しずつ繋がり始めていた。
「ありがとうございます、橘さん」白神は静かに言った。「もう少し、時間をいただけますか。確認したいことがいくつかありますので。」
橘は、無言で小さく頷くと、二人に背を向け、静かに図書室を後にした。その足音は、船の揺れに吸い込まれるように消えていった。
深町は、橘の後ろ姿が見えなくなってから、ようやく息をついた。「白神さん、今の質問は……」
白神は、手帳の図を凝視したまま、深町の言葉を遮った。「深町君、船の時計システムについて、もう少し詳しく調べてみましょう。特に、緊急時のマニュアルや、手動での同期解除の可能性について。」