第31節
嵐の密室

深町は、船長室の窓枠に残された微かな油の染みと細い擦り傷を指差した。白神は眼鏡の奥で目を細め、その痕跡を注意深く見つめていた。まるで、そこから何らかの物語が語り出されるのを待っているかのようだった。

「これ、本当に窓を閉める時に付いたものなんですかね?」深町が尋ねた。「窓は内側から施錠されていました。外から開けられた形跡はないと……」

「ええ、その通りです」白神は指先で窓枠の傷をなぞった。「しかし、この傷の付き方、そしてこの油の性質。一般的な窓の開閉で生じるものとは少し異なりますね」

白神は、その場にあった小さなピンセットで、擦り傷の縁に付着した微細な繊維を慎重に採取した。それを手のひらに広げた白いハンカチの上に置く。

「この油は、どこかで見たことがあるような……」深神が首を傾げた。

「そうかもしれません。しかし、今はまだ確信に至りません」白神はハンカチを畳み、ポケットに収めた。「それよりも、深町さん。この密室のトリックについて、改めて考えてみましょう」

白神は部屋の中央に立ち、改めて室内の様子をぐるりと見渡した。被害者の海堂船長が倒れていた暖炉の前、六分儀が凶器として使われたであろう場所、そして懐中時計が見つかった机。

「船長室の窓は、嵐の振動で一時的に緩み、何らかの細工が施された後に、再び固定された。そういうことでしょうか?」深町が言った。

「可能性の一つですね。あの嵐の夜、船体が激しく揺れ、轟音が響いていたことを考慮すれば、通常では不可能な作業も、一時的に可能になったと考えることもできます」白神は静かに答えた。「そして、凶器の六分儀が、窓から室内に戻されたと」

「しかし、どうやって?」深町は腕を組んだ。「外から戻すとしても、窓は内側から鍵がかかっています。それに、この船は嵐の中を航行していました。甲板に出るのも危険な状態だったはずです」

白神は深町の言葉に頷いた。

「確かに、そこが鍵です。外からの侵入は極めて困難だったでしょう。しかし、もし、犯人が船内にいる人物で、窓の構造を熟知していたとしたら?」

白神はもう一度、窓に近づき、その二重構造をじっと見つめた。内側の窓は頑丈な金具で固定され、外側の窓との間にわずかな空間がある。

「この構造を利用した何か、かもしれません」白神は呟いた。「嵐の振動と轟音は、窓の僅かな隙間を広げ、外部からの操作を可能にするための条件だったと」

深町は白神の言葉に、ある種の納得を見せた。嵐の夜、船全体が轟音と振動に包まれていたことは、乗客全員が証言している。その中で、通常の状況ではありえないような小さな動きが、密室を成立させるための重要な要素となった可能性は高い。

「しかし、あの嵐は一晩中続いたわけではありません。最も激しかったのは、夜半から未明にかけての数時間だったはずです」深町が指摘した。「犯行時刻と、嵐のピークは一致していたのでしょうか?」

白神は少し考え込んだ後、振り返って深町に言った。

「深町さん、少し時間をいただけますか。船の航行記録と気象データを、改めて確認したい。特に、嵐の強さと船体の振動が最も激しかった正確な時間帯を」

「もちろん、すぐに手配します」深町は頷き、通信機を取り出した。

白神は腕を組み、再び窓枠の傷に目を向けた。その表情は、何かを掴みかけているようでもあり、同時に、まだ何かを見落としているようでもあった。

「船長室の時計は、実際の時刻より十五分進んでいました」白神が独り言のように呟いた。「この時間差が、犯行時刻の誤認を誘うためのものだとしたら、嵐のピークとどう関係するのか……」

深町は通信機で指示を出し終えると、白神の隣に立った。

「船の記録は、すぐに管制室から送られてくるはずです。それに、機関室のログも合わせて確認させます」

「ありがとうございます。重要な手がかりになるはずです」白神は言った。「それと、青葉バーテンダーの証言についても、もう一度詳しく聞く必要があります」

白神は懐から手帳を取り出し、何かを書き込んだ。嵐の夜の正確なデータ、そしてバーテンダーのアリバイ。それらが密室の謎を解く鍵になると考えているようだった。

「青葉さんですか? 彼は事件発生推定時刻にはバーにいたと証言していましたね」深町が尋ねた。

「ええ。しかし、彼の証言には、まだ確認すべき点があります」白神は手帳を閉じ、ポケットに収めた。「嵐が最も激しかった時間帯、彼がどのような状況でバーにいたのか。詳細な行動を、もう一度聞きたい」

白神は、船長室の暖炉の灰の中に残された、不自然に溶けた金属片にも一瞥を与えた。しかし、そのことについては何も言わず、ただじっと見つめるだけだった。彼の思考は、密室の物理的なトリックと、時間操作の可能性に集中しているようだった。

「では、青葉さんのところへ向かいましょう」白神は深町に促した。「管制室からのデータは、後で改めて確認すればいい」

深町は頷き、白神と共に船長室を出た。廊下を歩きながら、深町は白神が嵐のピークの時間帯と、青葉の証言の関連性をどのように考えているのかを想像した。白神は、船の揺れや轟音が、青葉のアリバイに何らかの影響を与えたのではないかと考えているのだろうか。

二人は、船内の喧騒の中をバーへと向かった。深町は、船長室の窓枠に残された油の染みが、いまだに頭の片隅に引っかかっていたが、白神がそれを後回しにした以上、今はバーテンダーへの聞き込みが優先されるべきなのだろうと自分に言い聞かせた。嵐の正確なデータが届くのを待つ間、他にできることを進める。それが、今の白神の判断だった。

白神は、嵐の最も激しい時間帯に関する詳細な記録を、その場で徹底的に検証することなく、先に進むことを選んだ。彼は、その情報が後で必要になった時にいつでも入手できると考え、目の前の容疑者の証言確認を優先したのだ。それが、彼にとっての次の行動だった。
船内のバーは、嵐が落ち着いたとはいえ、まだ閑散としていた。