白神は、船長室の中央に横たわる海堂の遺体から目を離し、部屋全体を見回した。重厚な木製家具が並び、壁には古い海図や航海器具が飾られている。窓は二重構造で、内側から頑丈な鍵がかけられていた。深町は、静かにシャッターを切る音を響かせながら、白神の動きを追う。彼の首からはカメラがぶら下がり、手にはメモ帳とペンが握られていた。
「密室、ですね」
深町の声は、沈痛な空気の中で小さく響いた。
白神は、その言葉には答えず、床に落ちた真鍮製の六分儀に視線を固定した。それが凶器であることは、一目瞭然だった。鈍器として使われたにしては、あまりにも場違いな、しかし確かな存在感を放っている。
やがて、船医の篠崎麗が、清潔な白衣の袖口をきっちりと整えながら、検視を終えて立ち上がった。彼女の表情は常に冷静で、感情の揺らぎを一切見せない。
「死因は頭部への鈍器による損傷。おそらく、この六分儀でしょう」
篠崎は、床の六分儀をちらりと見た。彼女の目は一瞬、その真鍮の鈍い光沢を捉えたが、すぐに次の言葉を探すように宙を漂った。
「死亡推定時刻は、昨夜の十時から十一時の間といったところでしょうか。正確なところは、陸に上がってからでないと……」
そこへ、一等航海士の黒岩悟が、荒々しい足取りで近づいてきた。日焼けした顔に無精髭を蓄え、引き締まった体格が制服の上からも見て取れる。彼は、腕組みをして海堂の遺体を見下ろすと、深く息を吐いた。
「まさか、船長がこんな形で……」
その声には、怒りとも悲しみともつかない感情が混じっていた。
白神は、黒岩に視線を向けた。
「黒岩一等航海士、昨夜の十時から十一時の間、どちらにいらっしゃいましたか?」
白神は眼鏡のブリッジをそっと押し上げた。
黒岩は、その質問に即答せず、一拍の間を置いた。彼の視線は、部屋の隅に置かれた小さな地球儀を捉え、それからゆっくりと白神に戻った。
「私は、ブリッジで当直についていました。航海日誌にも記録があります」
言葉は淀みなく、はっきりとしていた。しかし、彼の背後で、片方の拳がゆっくりと開閉するのを深町は見た。まるで、何かを握りしめようとしているかのように、あるいは、手汗を拭うかのように。その仕草は、黒岩の口調からは想像もできないほど神経質に見えた。
「当直は、お一人で?」
白神はさらに問いかけた。
「いいえ、当直士官の木村と、操舵手の田中もいました。彼らも証言できるでしょう」
黒岩は答えたが、その声のトーンは、先ほどよりもわずかに硬いように深町には聞こえた。
白神は、深町のメモ帳に目を向け、小さく頷いた。深町はすぐにその言葉を書き留める。
「船長とは、何か最近、揉め事が?」
白神は、さらに核心に迫るような質問を投げかけた。
黒岩は、今度は間を置かずに答えた。
「揉め事、ですか。船長とは、航路のことで意見が対立することはよくありました。特に、今回の嵐の中での針路変更については、私も強く反対していましたから。しかし、それは仕事上のことです」
彼は言葉を区切るように話し、そのたびに眉間にしわを寄せた。彼の視線が、再度、床の六分儀を捉えた。その瞬間、彼の口元が、わずかに引き結ばれたように見えた。
その時、船室の扉がノックされ、船内バーテンダーの青葉拓也が顔を覗かせた。洗練されたバーテンダーの制服を身につけ、器用な手つきでグラスを拭くような癖がある彼は、いつも通り穏やかな笑顔を浮かべている。
「皆様、お飲み物はいかがでしょうか。こういう時こそ、少しは落ち着いて……」
青葉は、部屋の中の異様な雰囲気に気づき、言葉を途中で止めた。彼の笑顔は、ゆっくりと消え失せた。
「青葉さん、申し訳ありませんが、今は結構です」
篠崎が、冷ややかな声で言った。
「は、はい。失礼いたしました」
青葉はぺこりと頭を下げ、すぐに姿を消した。彼の背中には、いつもの軽やかさはなかった。
白神は、青葉が出て行った扉を一瞥すると、再び黒岩に視線を戻した。
「黒岩一等航海士。船長室の鍵は、通常、誰が管理していましたか?」
黒岩は、腕組みを解き、両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「船長本人です。副船長である私が予備の鍵を持っていますが、滅多に使うことはありません。厳重な管理下にあります」
彼の声は、またしても淀みなかった。しかし、深町は、彼のポケットに突っ込まれた右手人差し指が、わずかに震えているように見えた。それはほとんど錯覚に近いほど微かな動きだったが、深町はメモ帳に「黒岩、右手人差し指、震え?」と走り書きした。
白神は、その微かな動きには気づかない様子で、床の六分儀を指差した。
「この六分儀は、普段からここに?」
「ええ。船長は、古い航海器具を好んで集めていましたから。この六分儀も、祖父の代から伝わる品だと自慢していました」
黒岩は、六分儀から目を逸らし、壁に飾られた別の海図に視線を移した。
白神は、その答えを聞き終えると、遺体のそばに膝をつき、海堂船長の左腕をそっと持ち上げた。彼の左腕には、古く、しかしはっきりとわかる傷跡が残されていた。それは、まるで何かに強く引き裂かれたような、痛々しい痕だった。白神は、その傷跡をじっと見つめ、人差し指でなぞるように触れた。その傷は、単なる古い怪我というよりも、何か物語を秘めているかのように見えた。
深町は、その様子をカメラに収めながら、白神の次の動きを待った。白神は、腕をそっと下ろすと、静かに立ち上がった。
部屋の空気は、重く張り詰めたままだった。嵐の音だけが、船の外から絶え間なく響いている。