第29節
バーテンダーの動揺

豪華客船『春風』のバー「シーガル」は、嵐が弱まったとはいえ、まだ船体は大きく揺れていた。カウンターの奥に立つ青葉は、磨き上げられたグラスをいつもの器用な手つきで並べている。その動きには一点の曇りもなかった。
白神は、目の前のウイスキーグラスに指先で触れながら、静かに青葉を見上げていた。深町は白神の隣で、メモ帳を手にその様子を注視する。
「青葉さん、先ほどもお伺いしましたが、昨晩、船長が亡くなられた時間帯について、改めて確認させてください。」白神の声は、波の音にもかき消されそうなほど穏やかだった。「あなたは五階のラウンジに備品を届けに行かれた、と。」
青葉は、最後に並べ終えたグラスから手を離し、両の掌をカウンターに広げた。
「ええ、白神さん。確か、午後九時少し前だったかと。ラウンジで使用する特別なブランデーの補充でした。」
彼の声は、いつも通りの丁寧さを保っていた。深町は、彼が普段、乗客に語りかける時と全く同じ口調であることに、ある種の不気味さを感じた。

白神は手帳を広げ、視線を数行に落とした。眼鏡の奥の瞳が、僅かに光を反射する。
「ブランデーの補充は、通常、担当の者が行いませんか? あなたはバーテンダーとして、ここを離れることは稀だと伺っていますが。」
青葉の指が、カウンターを拭く布の端を無意識に掴んだ。その布は、彼の指先で細かく擦られていく。
「ええ、まあ、そうですね。ですが、あのブランデーは特に高価なものでして、私が直接運ぶよう、船長から指示があったものですから。ちょうどその時、他のスタッフが手一杯でして……」
彼は早口になった。その視線は、白神の顔から滑るように、深町の背後の壁へと向けられた。
「何を……そんなに何度も確認なさるんですか、白神さん? 私の証言に何か?」
声のトーンが、わずかに高くなった。深町は、彼の頬の筋肉がピクリと動いたのを見逃さなかった。

白神は表情を変えず、ただ静かに青葉を見つめていた。
「我々はただ、事実を再確認しているだけです。青葉さんの証言は、他の証言といくつか食い違う点がありましてね。例えば、そのブランデーの在庫について、記録上は先週補充されたばかりだと確認されています。」
青葉の手がぴたりと止まった。彼は掴んでいた布をカウンターに落とし、両の掌をゆっくりと握りしめた。
「在庫が……?そんなはずは……まさか、私が記録を確認しなかったとでも?」
彼は乾いた笑いを漏らした。それは、バーに響く波の音よりも不自然で、ぎこちない響きだった。
「はは、まさか。船長が、急に『今夜使うから』と仰ったものですから。いつもと違う銘柄で、特別に、と。」
彼の言葉は、明らかに先ほどよりも早口になっていた。視線は窓の外、荒れた鉛色の海へと泳ぎ、落ち着かない様子だった。

「船長は、以前からあなたに個人的な指示を出すことが多かったのですか?」白神は、今度は手帳を閉じ、その視線を青葉の目へと真っ直ぐに向けた。
青葉の体が、わずかに硬直したように見えた。彼は視線をそらし、カウンターの上の水滴を拭うふりをして、別のグラスを乱暴に手に取った。カチャリ、と硬い音がした。
「いえ、そんな、まさか。船長は公正な方ですから。ただ、今回ばかりは……」
彼は言葉を詰まらせた。彼の指先が、そのグラスの縁を何度も、まるで何かを確かめるように擦っている。
「個人的な……指示など、滅多に。ただ、昔からの付き合いが長いですから、時折、世間話を、という程度で。」
彼の言葉は、口の中で絡みつくように、不明瞭になった。

「世間話、ですか。」白神は淡々と続けた。「しかし、我々が知る限り、船長とあなたとの間には、金銭的なトラブルがあったと伺っていますが。」
その瞬間、青葉の顔から血の気が引いた。唇がわずかに震え、彼の視線は床に落ちた。彼はカウンターの下に手を滑らせ、深町には見えないところで、指先が何かを強く握りしめているように思えた。
「金銭……トラブル、などとんでもない。それは、昔の話で……解決済みのことです。まさか、そんなことを今さら持ち出すとは……」
彼の声は、ほとんど囁き声になり、最後はかき消えるように途切れた。彼は再び「はは」と短く笑った。それはもう笑いというよりは、ただの息の漏れる音だった。
彼は激しく首を左右に振った。
「まさか、私が……船長を、とでもおっしゃるんですか? そんな、馬鹿な……」
彼の目は泳ぎ、白神と深町の間を何度も行き来した後、再びカウンターの奥へと逸れた。呼吸が浅く、速くなっている。
「信じてください、白神さん。私は、本当に……何も知りません。あの夜は、ただ、備品を届けに……」
彼はそこで言葉を切り、深く息を吐いた。その表情は、もはや繕うことができないほどに歪み、彼の額には薄っすらと汗がにじんでいた。彼は両手でエプロンを、今度は強く、まるで縋り付くように握りしめていた。
その様子は、普段の物腰柔らかなバーテンダーからは想像もつかないほど、切迫したものだった。彼の背後で、揺れる船体がギシ、と鈍い音を立てた。