豪華客船『春風』の甲板へ出るためのドアを開けると、海風が頬を撫でた。白神は、船長室の重苦しい空気から解放されるように、大きく息を吐き出す。深町もまた、彼の隣で同じように、滞っていた何かを吐き出すかのように肩を揺らした。空は、厚い雲の切れ間から覗くわずかな光で鈍く輝き、海面を薄い鉛色に染めている。嵐の名残はまだあるものの、波の勢いは幾分か弱まっていた。
白神は細い指で眼鏡のブリッジを押し上げ、そしてスーツの袖口を軽く整えた。その仕草には、これまで積み重ねてきた思考を一度リセットするような、区切りをつける意図が見て取れる。陽光が彼の黒髪に薄く当たり、その輪郭を際立たせた。
「少しは頭が冷えたでしょう、深町君」
白神の声は、波の音に掻き消されそうになりながらも、はっきりと深町の耳に届いた。
「ええ、本当に。船長室は、あの閉塞感がどうも…」
深町は首を左右に振った。海堂船長の遺体が発見されたあの部屋の光景が、まだ網膜に焼き付いている。密室という状況が、更にその閉塞感を強めていた。
「閉塞感、ですか。しかし、あの部屋は、物理的に閉ざされていただけでなく、多くの情報もまた、我々にとって閉ざされている」
白神は手すりに手をかけ、遠くの水平線を眺めた。その視線の先には、何も見えない。ただ、広大な海が広がるばかりだ。
「船内時計の操作、被害者の懐中時計の時間操作、監視カメラの不鮮明な映像、そして暖炉の灰の中の金属片…一つ一つは明白でも、それらが繋がらない。犯人は、まるで我々が真実に到達するのを阻むように、巧妙に情報を攪乱していますね」
「あの監視カメラの映像は、本当に厄介です。なぜあの時間帯だけ、あんなに不鮮明になっていたのか…」
深町はポケットからメモ帳を取り出し、先日、船の警備主任から聞き取った内容を再確認する。事件発生の推定時刻とされる午後八時前後、船内を巡回する監視カメラのうち、船長室のあるフロアを映す数台が、まるで霧がかかったかのように映像が乱れていた。技術担当者は「嵐のせいで一時的に電波障害が起きた可能性がある」と説明したが、他のフロアのカメラには異常は見られなかったという。
「嵐の影響は、否定できません。しかし、その影響が特定のフロア、特定の時間帯に集中したという点には、少しばかり引っかかるものがある」
白神はそう言いながら、手すりから手を放し、甲板をゆっくりと歩き始めた。深町は慌ててその後を追う。
「それに、六分儀という凶器を選んだ理由も気になります。船長室に飾られていたとはいえ、他にも凶器になり得るものはあったはずです」
「アンティークの真鍮製六分儀。あれはただの凶器ではなかった。海堂船長の、いわば象徴のようなものだったでしょう。あるいは、過去の何かを想起させるための、犯人からのメッセージだった可能性も考えられます」
白神は立ち止まり、船の側面を流れる波の飛沫に目を向けた。その飛沫は、瞬く間に消えていく。
「過去…ですか。やはり、十五年前の海難事故と無関係ではないと?」
深町は、事件の背景に横たわる、あの忌まわしい過去について考えを巡らせた。海堂船長がその事故の責任者の一人であったこと、そしてその事故で多くの命が失われたことは、既に広く知られている事実だ。
「海堂船長の手帳に残されていた『K』というイニシャル、それに対する恨み言。あれも気になります。犯人が誰であろうと、あの事故が動機の一つであることは間違いないでしょう」
深町が手帳の記述について触れると、白神はわずかに眉を寄せた。
「『K』。船医の篠崎麗先生は『K』のイニシャルを持つ人物について心当たりはないと証言しました。一等航海士の黒岩悟氏は、海堂船長と意見の対立が多かったと。青葉拓也氏は金銭トラブル、秘書の橘美咲さんは個人的な関係。それぞれに動機はあり得る。しかし、あのイニシャルが示唆するものは、もっと深い場所にあるのかもしれない」
白神は顎に手を当て、再び思案に沈んだ。
「船医の篠崎先生が事件直前に処方したという鎮静剤も、まだ引っかかります。海堂船長は心臓が弱かったとはいえ、なぜあんなタイミングで多量の処方箋が出たのか」
「それは、海堂船長の体調の変化を示すものか、あるいは…誰かの意図的な行動か。どちらにしても、篠崎先生の証言は重要です」
白神はそう言うと、甲板の隅に設置されたベンチに腰を下ろした。深町もその隣に座る。
「船内は広い。監視カメラの死角もあれば、乗客や乗員が自由に行き来できる場所も多い。密室トリックも、この船の構造を熟知した者でなければ実行は難しいでしょう」
深町は周囲を見渡した。この豪華客船『春風』は、まさに海に浮かぶ一つの小さな街だ。その中には、様々な人間関係が渦巻き、過去と現在が交錯している。
「我々は今、船という閉鎖空間にいます。この船が持つ物理的な特性、そしてここに集まった人々の心理的な特性、その両面から事件を紐解いていく必要がある」
白神はベンチから立ち上がり、再び手すりへ向かった。彼の視線は、遠くの空に浮かぶカモメを追う。
「さて、深町君。少しは気分転換になったでしょうか。そろそろ、次の手掛かりを探しに、船内へと戻りましょうか」
彼の言葉には、再開される捜査への静かな決意が込められていた。深町は頷き、メモ帳をポケットにしまいながら、白神の背中を見つめた。外の空気は、確かに頭を冷やし、新たな視点をもたらしたように思えた。だが、その視点の先に、真犯人の姿がはっきりと捉えられる日は、まだ遠い。深町は、白神の隣に並び、再び船内へと続くドアをくぐった。そこには、また別の密室が待っている。心理的な密室が。