豪華客船『春風』の応接室は、厚手の絨毯が敷かれ、壁には航海の絵画が飾られていた。嵐の轟音は依然として船体を揺らしていたが、この部屋の重厚な調度は、その喧騒をいくらか遮断しているようだった。白神はソファに深く身を沈め、膝の上の手帳に目を落としていた。向かいの椅子には深町が座り、カメラを膝に置いて、次に現れる人物を待っていた。
やがて、ノックの音が響き、船医の篠崎麗が姿を現した。彼女はいつも通りの清潔な白衣を纏い、髪はきっちりとまとめられている。その表情は冷静で、動揺の気配は見られない。
「お待たせいたしました、白神さん、深町さん」
篠崎は姿勢正しく一礼し、白神の向かいのソファに腰を下ろした。白神は手帳から顔を上げ、静かに問いかけた。
「篠崎先生、再度お伺いします。海堂船長が殺害された推定時刻、およそ午後十時から十一時の間に、船長室の付近で何か変わったことはありませんでしたか?」
篠崎はわずかに首を傾げた。
「前回もお答えした通り、特に変わったことはございませんでした。私はその時間帯、船医室で日誌の整理をしておりましたし、船長室の廊下を通った際も、人影は見ておりません」
深町は篠崎の言葉をメモしながら、白神の次の質問を待った。白神は眼鏡の奥で篠崎の瞳をじっと見つめる。
「船長室の窓についてです。外側から何か細工がなされた形跡は、視認できませんでしたか?」
篠崎の涼やかな表情に、一瞬だけ、微かな変化がよぎった。彼女の視線が、白神の顔からわずかに逸れ、左手の指先が、無意識に白衣の襟元に触れた。
「窓、ですか……。ええ、あの、そのようなものは、特に、見受けられなかったと記憶しておりますが……」
言葉の間に、ごく短い、しかし確かな間があった。普段の彼女からは想像できないような、わずかな声の揺らぎが深町の耳にも届いた。
白神は表情を変えず、淡々と続けた。
「しかし、窓枠には微かな油の染みと、細い擦り傷が確認されています。それは、外から何らかの器具が使われた可能性を示唆するものです」
篠崎は唇をきゅっと引き結び、白神の言葉をじっと受け止めた。彼女はもう一度、今度はゆっくりと、指先で襟元を撫でた。その目は、再び白神の瞳を捉えていたが、その奥には、何かを押し殺すような硬い光が宿っているように深町には見えた。
「……承知いたしました。私の見落としであれば、申し訳ございません。しかし、私には、その、明確な記憶がございません」
篠崎はそう言って、再び完璧な冷静さを取り戻したように見えた。深町は、その変化を注意深くノートに書き留めた。
篠崎が退室した後、白神は手帳に何かを書き込み、深町に視線を向けた。
「次の方を」
次に現れたのは、バーテンダーの青葉拓也だった。彼は洗練された制服に身を包み、いつものように柔らかな笑顔を浮かべている。
「白神さん、深町さん。何かお役に立てることがあれば、何なりと」
青葉はソファに座ると、両手を膝の上に揃え、姿勢を正した。
白神は青葉の顔を真っ直ぐに見据えた。
「青葉さん、船内の時計は定期的に調整されると伺いました。特に、バーの開店前には入念に確認されると」
「ええ、もちろんです。お客様に正確な時間をお伝えするのは、バーテンダーの務めですから」
青葉は笑顔で答えた。その声には、一切の淀みがない。
「では、船長室で発見された海堂船長の懐中時計は、船内時計よりも15分進んでいたのですが、これについて何か心当たりは?」
白神の言葉を聞いた途端、青葉の顔から、いつもの柔らかな笑顔が消えた。その口元が、一瞬、ぴくりと引き攣る。彼は右手で、無意識に顎のあたりを軽く擦った。
「……いえ、それは、私には、全く分かりかねます。船長の私物ですから、私が触ることはありませんし……」
彼の言葉は、先ほどまでの流暢さを失い、ややぎこちない。普段の丁寧な言葉遣いも、どこか不自然に聞こえる。深町は青葉の表情と仕草から、明らかに動揺していることを読み取った。
白神は青葉の反応をじっと見つめていた。その視線は、青葉の指先が顎から離れ、膝の上に戻るまで、決して逸らされなかった。
「そうですか。では、海堂船長が事件当日、バーを訪れたことは?」
「いえ、ございません。あの日、船長は終日、船長室に籠もりきりだと聞いておりましたので」
青葉は努めて平静を装っているが、その声のトーンはわずかに低くなっていた。
「しかし、船長室のゴミ箱から、あなたのバーで提供されるカクテルのコースターが発見されています。それも、事件当日の日付で」
青葉の顔色が、さらに悪くなった。彼は俯き、返答に詰まったように見えた。その唇は、何かを言いたげに開閉を繰り返したが、結局、言葉は出てこなかった。
白神は青葉の沈黙を、ただ静かに見守っていた。深い海の底のような、静かで冷たい視線だった。深町は、この二つの証言の間に横たわる矛盾が、白神の思考の中で、新たな形を成しつつあることを感じていた。