白神悠の視線は、医務室の簡素な机を挟んで向かいに座る篠崎麗に注がれていた。彼女は清潔な白衣をまとい、髪をきっちりと後方でまとめている。その知的な顔には、感情の揺らぎが一切見受けられなかった。深町薫は、首から下げたカメラのストラップを指で弄びながら、手元のメモ帳にペンを走らせる準備をしていた。医務室独特の消毒液の匂いが、微かに鼻を刺激する。
「篠崎先生。船長がお亡くなりになったとされる夜、先生はどちらにいらっしゃいましたか?」白神は静かに尋ねた。
「医務室です。午後十時から午前零時まで、ずっとこちらで書類の整理をしておりました。」篠崎の声は、まるで医療記録を読み上げるかのように淀みなく、正確だった。「定期巡回は午後九時半には終えておりましたので、それ以降は、緊急の呼び出しがない限り医務室を離れることはありません。」
「その間、船長室へは?」
「いいえ。船長は通常、あの時間帯には執務室に籠もられることが多いですから。何かあれば、必ず呼び出しがあるはずです。」
篠崎はそう言い切り、微動だにしなかった。その姿勢は、完璧なアリバイを提示しているかのようだった。
「船長は、最近何か変わった様子はありませんでしたか?例えば、睡眠の質が悪くなったとか、何か特定の薬を要求されるとか。」白神は、間を置かずに質問を重ねた。
篠崎はわずかに首を傾げた。「特にございません。海堂船長は、頑健な方でした。年に一度の健康診断でも、至って健康体と診断されていましたよ。精神的にも肉体的にも、非常に強靭な方でいらっしゃいました。」
白神は手帳をゆっくりと開き、一枚のページに視線を落とした。そこには、先日行われた現場検証で得られた情報が走り書きされていた。
「船長室のゴミ箱から、使い捨てカイロの燃えカスが見つかっています。」白神は顔を上げ、篠崎の目を見据えた。「船長は、冷え性でしたか?」
篠崎の眉間に、ごく微かな皺が寄った。彼女は一瞬、唇の端を小さく持ち上げたが、その笑みはすぐに消え失せた。それは、まるで不意を突かれた時の、困惑とも違う、どこか自嘲にも似た表情だった。
「…いいえ。むしろ、暑がりな方でした。冬でも暖房を強めに設定しておられることが多く、私も何度か、室温が高いと感じた記憶がございます。」彼女の声の調子が、僅かに速くなった。「しかし、そうですね…最近、私が処方したわけではありませんが、睡眠導入剤を服用されていたようです。市販のものでしょうか、私には判りかねますが。」
深町は、その言葉を聞いて思わずペンを握り直した。彼女の最初の「特にございません」という断言が、この新たな情報によって揺らいでいるのが明らかだった。
「市販の、ですか。船長がご自分で調達を?」白神が問い返した。
篠崎は、清潔な指先で白衣の袖を撫でた。その仕草は、わずかな動揺を隠すかのようにも見えた。「ええ。私に相談なく、個人的に服用なさっていたのでしょう。正直なところ、睡眠導入剤がゴミ箱から発見されたと伺った時、少し驚きました。」
「なぜ、驚かれたのですか?」深町が前のめりになる。その声には、隠しきれない興奮が滲んでいた。
篠崎は深町に視線を向け、穏やかな声で答えた。彼女の視線は、深町の首から提げられたカメラに一瞬向けられ、それから再び白神の手帳へと戻った。
「船長は、薬に頼ることを極端に嫌う方でした。特に精神安定剤や睡眠導入剤といったものは、ご自身の弱さを認める行為だと考えておられたようです。だから、まさかご自分で、そういったものを服用なさるとは…」
彼女は言葉を濁したが、その視線は白神の手帳に書かれた文字を追っているかのようだった。まるで、そこに何か答えが記されているとでも言うように。
白神は手帳を閉じ、篠崎の目を見据えた。彼の目は、彼女の心の奥底を見透かすかのように鋭かった。
「では、船長がカイロを使うような冷え性ではなかった、と。そして、ご自身で睡眠導入剤を服用されていた可能性が高い、と。」
篠崎はゆっくりと頷いた。彼女の表情は再び、最初の穏やかさに戻っていたが、その目の奥には、微かな動揺の残滓が、まるで水面に広がる波紋のように見て取れるようだった。
「その通りです。船長は、冬でも窓を少し開けて寝るような方でしたから。」
深町はメモを取りながら、白神の顔をちらりと見た。白神は何も言わず、ただ静かに頷いていた。
「ありがとうございました、篠崎先生。また何かお気づきの点がございましたら、ご協力をお願いします。」白神はそう言って、椅子から立ち上がった。
篠崎も立ち上がり、軽く頭を下げた。その動きは機械的で、何かを隠しているようには見えなかった。彼女は、白神と深町が医務室を出るまで、その場に立ち尽くしていた。
廊下に出ると、深町はすぐに口を開いた。
「船長が暑がりなのにカイロですか。しかも、あんなに薬嫌いだった船長が、こっそり睡眠導入剤を…これは何か裏がありそうですね。」
白神は歩みを止め、窓の外の荒れた海を眺めた。船体は大きく揺れ、遠くで波が砕ける音が聞こえる。
「ええ。篠崎先生は、最初から全てを話していなかった、ということでしょう。」彼は静かに言った。「あのカイロと睡眠導入剤。この二つが、船長室の密室の謎を解く鍵になるかもしれません。」
白神の視線は、荒れる波の向こう、水平線の彼方を見つめていた。まるで、その先に真実が隠されているとでも言うように。