白神は再び、床に落ちていた海堂船長の懐中時計を手に取った。真鍮製の蓋を開き、文字盤に目を凝らす。針は午前二時十五分を指したまま、止まっていた。
深町は、白神の動きに合わせてその隣に歩み寄った。首から下げたカメラが、彼の腰に軽く当たる。白神は深町に気づくことなく、その時計の文字盤から視線を動かさない。
豪華客船『春風』の船長室に、嵐の轟音が遠のくような、奇妙な静寂が訪れた。船体が揺れる微かな軋みだけが、二人の耳に届く。
白神は、その時計を握りしめたまま、微かに息を詰めた。眼鏡の奥の目が、一点を捕らえている。
「船内の時計は、午前二時ちょうどで止まっていましたね」と深町が、静寂を破るように呟いた。
白神はゆっくりと顔を上げた。その知的な眼鏡のフレームが、わずかに光を反射した。
「ええ。そして、この懐中時計は、船内の公式な時刻よりも十五分進んでいました」
深町はメモ帳を取り出し、ペンを走らせた。「つまり、犯人は船内の時計を操作し、さらに船長の懐中時計もずらした、と考えるのが自然でしょうか?」
「可能性はあります。船長室の時計が停止したのが午前二時。しかし、この懐中時計が示すのは二時十五分。何らかの意図をもって、時間を偽装しようとしたのかもしれない」
白神は懐中時計の蓋をそっと閉じた。その真鍮の表面に、彼の指紋が残る。彼は時計を軽く回転させ、裏蓋の彫刻を検分した。
「犯行時刻をずらすため、でしょうか。例えば、ある人物のアリバイを偽造したり、逆に崩したりするために」深町は考え込むように呟いた。
「そうですね。事件発生時、各自がどこにいたか、証言と記録をもう一度精査する必要があります。特に、午前二時から二時半までの行動を、詳細に」
白神は懐中時計を丁寧にハンカチに包み、証拠品袋に入れた。その手つきは慎重だった。
「船内バーテンダーの青葉拓也は、二時半までバーにいたと証言していました。そして、一等航海士の黒岩悟は、二時過ぎにはブリッジから自室に戻ったと。船医の篠崎麗は、夜勤を終え、一時半には自室に戻っていたはずです。橘美咲秘書は、夜食を終え、二時前には自室へ、と」
深町は手元のメモを読み上げた。彼の指が、それぞれの名前をなぞる。
「それぞれの証言を、懐中時計のこの『十五分のずれ』と照らし合わせることで、新しい側面が見えてくるかもしれません。特に、青葉さんの証言は気になりますね」
白神は頷き、手帳を取り出し、何かを書き付け始めた。彼の目は、まだその懐中時計が指し示した時刻の幻影を追っているかのようだった。
「二時半までバーにいたという彼の主張と、この十五分のずれ。もし犯行が二時十五分だったとしたら、彼はギリギリでアリバイが成立しない可能性も出てきます。バーから船長室までの移動時間も考慮すると、ますます疑わしくなりますね」
深町は興奮気味に言った。彼の声には、確信に近い響きが混じっていた。
白神は手帳から顔を上げ、深町の目を見た。
「ええ。しかし、まだ断定はできません。この時計のずれが、単純な時間操作ではない可能性も、考慮に入れるべきです。例えば、船長が自身の懐中時計を、何らかの理由で意図的に進めていた、ということもあり得ます」
彼はそう言ったが、その表情は、やはり時刻の操作という線に強い関心があることを示していた。
「しかし、船内の公式な時計まで操作されているとなると、やはり犯人が関与していると考えるのが自然でしょう」と深町は反論した。
白神は口元に微かな笑みを浮かべ、それ以上は言わなかった。
「では、まずは青葉さんのアリバイについて、より詳しく洗い直しましょうか。彼がバーを離れた瞬間を目撃した者はいないのか、あるいは、バーのレジ記録や、他の乗客の証言で裏付けが取れるか、といった点です」と深町が提案した。
白神は眼鏡の位置を直し、深町に視線を向けた。
「その通りです。彼の証言を裏付ける記録や、目撃者、そして彼がバーを離れた正確な時刻を再確認する必要があります」
白神は船長室のドアに向かって歩き出した。深町もそれに続いた。彼らは、一度部屋の外に出て、再び室内を見回した。
「スマートフォンやSNSでの情報収集は、この嵐の中では望めませんからね。結局は、地道な聞き込みと記録の照合しかない、と」
深町はため息をついた。彼のカメラが、肩で揺れた。
「ええ。しかし、そこにこそ、真実が隠されているものです。多くの人間が見落とすような、些細な不整合の中に」
白神はドアノブに手をかけ、振り返った。
「この『十五分の空白』が、何を意味するのか。それが、次の扉を開く鍵となるでしょう。それが、誰かのアリバイを完全に崩すものなのか、あるいは、全く別の真実を指し示すものなのか、まだ分かりませんがね」
彼の言葉は、船長室を出る二人の背後に、重く響いた。廊下の向こうから、船員の足音が近づいてくるのが聞こえた。