第02節
嵐の予兆

豪華客船『春風』の船内は、春の嵐に揺られ、不規則な軋みを上げていた。窓の外は鉛色の空と荒れ狂う波が広がり、時折、船体が大きく傾ぐたびに、乗客たちの小さな悲鳴が上がる。揺れに慣れない者は、通路の手すりを掴みながら、不安げな表情で顔を見合わせていた。

そんな中、深町薫は、首から下げたカメラを揺らしながら、船内のラウンジを歩いていた。動きやすいカジュアルなジャケットの下には、しわ一つないシャツ。その手には、常にメモ帳とペンが握られている。彼は、窓の外の荒れた海をじっと見つめ、何かを記録しようと目を凝らしていた。嵐の中でも、彼の好奇心は衰えることを知らなかった。

「深町さん、あまり窓に近づかない方がよろしいかと」

背後から、落ち着いた声がかけられた。深町が振り返ると、そこに白神悠が立っていた。彼は、落ち着いた色合いのスーツを完璧に着こなし、その知的な眼鏡の奥から、深町をじっと見つめていた。その視線には、周囲の喧騒や船の揺れに全く動じない、静かな観察力が宿っている。白神は、常に携帯している小さな手帳を胸ポケットから取り出し、何かを書きつける仕草を見せた。

「白神さん。これはなかなか見られない光景ですよ。自然の猛威というやつです」深町は、興奮を隠しきれない声で言った。「しかし、この揺れでは、船長も大変でしょうね」

白神は眼鏡のブリッジをそっと押し上げた。「ええ。しかし、この『春風』は最新鋭の設備を備えています。船長が動じることはないでしょう」

深町は、白神の言葉に少し拍子抜けした顔をした。彼の目は、再び窓の外へと向けられた。波が甲板を叩きつける音が、ガラス越しにも響いてくる。

「それにしても、こんな嵐の中、船長室はどんな様子なんでしょうね」深町は独り言のように呟いた。

白神は何も答えず、ただ静かに深町の隣に並んだ。彼の視線は、深町の向かう先ではなく、ラウンジの隅にある、乗務員専用通路の扉に向けられていた。その扉は、普段は固く閉ざされているはずだが、今はわずかに隙間が空き、中から微かな話し声が漏れている。

深町は、白神の視線に気づき、そちらを見た。
「何かありましたか?」

白神は、手帳のページを一枚めくりながら、静かに答えた。「いえ。ただ、乗務員の方々が、いつもより慌ただしいように見受けられます」

その時、船内放送が、荒れたノイズを交えながら響き渡った。
「……緊急事態発生。全乗組員は、それぞれの持ち場へ急行してください。繰り返します……」

放送は途中で途切れ、再びノイズだけになった。乗客たちの間に、ざわめきが広がった。深町は、反射的にカメラを構えようとしたが、すぐにその手を下ろした。彼は白神の顔を見た。白神の表情は変わらない。ただ、その瞳の奥に、わずかな緊張の光が宿ったように見えた。

「これは、ただの嵐ではなさそうですね」深町は、声を潜めて言った。

白神は、手帳を胸ポケットに戻しながら、ゆっくりと歩き出した。彼の足取りは、船の揺れにも関わらず、どこまでも安定している。
「ええ。確認しに行きましょう」

彼の言葉は、常に丁寧な響きを持つが、そこには揺るぎない決意が込められていた。深町は、その背中を追いかけるように、慌てて歩き出した。船内のざわめきが、徐々に大きくなっていく。二人は、乗務員専用通路の扉へと向かった。