白神は眼鏡のブリッジに指をかけ、わずかに上げた後、元の位置に戻した。深町は、白神が言葉を発するのを待ったが、彼からは何の指示もない。静かに踵を返し、来た道を戻り始める白神の背中を、深町は慌てて追った。重厚な絨毯が敷かれた廊下を、二人の足音が吸い込まれていく。
「白神さん、どちらへ?」
深町は小声で尋ねた。白神は答えず、ただ前方を見つめて歩を進める。彼はエレベーターには目もくれず、最寄りの階段へと向かった。木製の階段を上るたび、二人の靴音が一段ずつ響く。深町は肩から提げたカメラバッグが揺れるのを抑えるように、ベルトを握り直した。彼の顔に、階段の途中にある小窓から差し込む午後の光が、格子状の影を落とした。船の揺れは依然として大きく、手すりを握る指に自然と力がこもる。
二階分の階段を上りきると、そこは先ほどとは異なる雰囲気の廊下だった。美術品が飾られた広々とした空間ではなく、もう少し質素な、乗員用の区画に近い印象を受ける。廊下の突き当たりには、金属製のドアがあった。白神はそのドアの前に立ち止まり、深町を振り返った。
「船長室の鍵は、内側から確実に施錠されていた」
白神は静かに言った。深町は頷く。そのことは、既に何度も確認された事実だった。
「そして、窓も」
「はい。二重構造で、内側の鍵も厳重でした」
「しかし、もし、そう見えるように仕組まれていたとしたら?」
白神の視線は、金属製のドアに固定されたままだった。深町は息を呑んだ。
「それは…どういう意味ですか?」
「密室を偽装する、という可能性だ」
白神はドアの表面を指でなぞった。
「この船は、様々な場所で微細な振動を発生させている。嵐の中を航行する今は、それが特に顕著だ」
深町は周囲の壁に耳を澄ませた。確かに、微かな機械の唸りや、船体全体を揺るがす波の衝撃音が、壁の向こうから伝わってくる。
「その振動が、何か関係すると?」
「例えば、内側から施錠されたように見せかけるための、何らかの仕掛けだ」
白神は再び顔を深町に向けた。彼の眼鏡の奥の瞳は、まるで遠くを見つめるようにかすかに揺れていた。
「しかし、どうやって…」
深町は言葉を詰まらせた。想像が追いつかない。
「その仕掛けが、船長室で使われた六分儀と関係があるとすれば、どうだろう」
深町は驚きに目を見開いた。凶器として使われた、あの真鍮製の六分儀か。
「まさか、あの重い六分儀を、道具として…?」
「そこまではまだ定かではない。だが、船長室の窓枠に残されていた、微かな油の染みと細い擦り傷。あれは、単なる経年劣化では片付けられないかもしれない」
白神はドアから離れ、ゆっくりと廊下を歩き始めた。深町は慌ててその後を追う。今度は、来た道を戻るのではなく、廊下の奥へと進んでいく。突き当たりの小さなドアを開けると、そこは物資が山積みにされた倉庫のような場所だった。天井からは裸電球が一つぶら下がり、薄暗い空間をぼんやりと照らしている。倉庫の中央には、古びた作業台があり、その上に工具や部品が雑然と置かれていた。
白神は、その作業台の隅に置かれた、一冊の分厚いファイルに目を留めた。表紙には『船体構造図』と手書きされている。白神はファイルを手に取り、埃を払うと、最初のページを開いた。そこに描かれていたのは、豪華客船『春風』の複雑な内部構造だった。細い通路、隠された配管、そして、船内各所の詳細な寸法までが、緻密な線で描かれている。深町は白神の隣に立ち、その図面を覗き込んだ。
「これは…船の設計図ですか」
「ああ。特に、この部分だ」
白神は指で、船長室がある区画を指し示した。その部屋の周囲には、いくつかの小さな空間が点線で示されており、普段は目にすることのない、隔壁の裏側やサービス用の通路らしきものが描き込まれていた。
「船長室の壁の向こうに、こんな場所が…」
深町は呟いた。図面には、その小さな空間へと続く、非常時用のハッチのような記号も描かれている。白神は、そこに何かを見出したかのように、図面から目を離さなかった。彼の表情は、依然として冷静そのものだったが、その瞳の奥には、新たな可能性の光が宿っているようにも見えた。
「この図面は、船長室の密室の鍵を握るかもしれない」
白神は静かに結論を述べた。深町は、その言葉の意味を理解しようと、もう一度図面を見つめた。嵐の夜、船の揺れ、そしてこの複雑な内部構造。全てが、これまで見えていた事件の輪郭を、少しずつ変え始めているように感じられた。
白神はファイルを閉じ、それを元の場所に戻した。
「この区画の、他の部屋も確認する必要がある」
彼の声には、確かな探求の意志が込められていた。