第18節
秘書の鉄壁

船内ラウンジの一角は、昼下がりの光を受けて静まり返っていた。窓の外では、依然として灰色がかった空が広がり、時折、遠くの波が船体を揺らす。革張りのソファに深く身を沈めた橘美咲は、白神の質問に対し、その完璧なメイクの下でわずかに表情を固めた。ブランド物のスカーフが、彼女の細い首元で微かに揺れる。まるで、彼女の内面の動揺を映し出すかのように。

「船長は、仕事以外の時間で、特に親しくされていた方はいらっしゃいましたか?」

白神は、その知的な眼鏡の奥から、まっすぐな視線を向けた。手帳を閉じた彼の指先が、テーブルの上を軽く叩く。その音は、ラウンジの静寂の中で、妙に耳に響いた。深町は、首から下げたカメラを無意識に握りしめながら、彼女の反応を注視した。彼のペンは、メモ帳の白紙の上で、今か今かとその動きを待っているようだった。

橘美咲は、一瞬、言葉を探すように天井を見上げた。その視線はすぐに白神へと戻ったが、先ほどまでの穏やかな微笑は、どこかぎこちないものに変わっている。口角は上がっているが、その瞳の奥には、わずかな影が差しているように深町には見えた。

「それは……」

彼女は言葉を濁すと、すっと体を傾け、テーブルの端に置かれた自身のスマートフォンを、掌で覆うようにした。黒い画面は、彼女の指の下で完全に隠れる。その口元には、奇妙なほど完璧な笑みが張り付いている。彼女の仕草は、まるで大切なものを守ろうとするかのように、無意識的でありながらも、確固たる意志を秘めているように見えた。その全身から、わずかな硬直が伝わってくる。

「船長は、公私の区別をはっきりされる方でしたから。私のような者が、軽々しく申し上げるべきことではございません。」

彼女の声は、先ほどまでの穏やかさを失い、まるで研ぎ澄まされた刃のような丁寧さで、白神の質問をかわした。その言葉の端々には、一切の隙を与えない堅牢な壁が築かれている。深町は、その変化に息を呑んだ。それまで感じていた、秘書としての親しみやすい雰囲気が、一瞬にして冷ややかな事務的なものへと変貌したかのようだった。

「なるほど。では、私的な交流が全くなかった、と?」

白神は、橘美咲の言葉の壁を崩すことなく、あくまで冷静に問い返した。彼の声には、感情の揺れが一切含まれていない。その冷静さが、かえって橘美咲を追い詰めているようにも深町には映った。

橘美咲は、自身の掌で覆い隠したスマートフォンから、ゆっくりと手を離した。しかし、その手はすぐに、テーブルの縁に置かれた小さな革製の手帳へと移り、その表紙を撫でた。手帳は、彼女の指先で、何度も同じ箇所を摩られている。

「全く、と申しますと語弊がございます。船長は、この船のすべてを愛しておられましたから。乗客の皆様、乗員、そして船そのもの……そのすべてに、深い愛情を注いでおられました。特定の方との親密な関係というよりも、むしろ、この『春風』そのものに人生を捧げていらっしゃった、と。」

彼女は、まるで練習されたかのような流暢さで、無難な答えを口にした。その言葉は、まるで霧のように掴みどころがなく、核心に触れることを避けている。深町のメモ帳を持つ手が、少しだけ力を込めた。彼は、橘美咲が海堂船長の公的なイメージを懸命に守ろうとしていることに気づいた。

「特定の方ではなく、ですか。しかし、船長室の遺留品の中に、ある私的な書簡が見つかっています。差出人の名前は伏せられていましたが、内容から察するに、相当に親密な関係の人物からのものと思われます。それについても、ご存知ない、と?」

白神は、彼女の言葉を反芻するように呟いた後、静かに問いかけた。彼の視線は、スマートフォンから手帳へと移り、そして再び橘美咲の顔に戻る。その言葉の響きは、ラウンジの静けさの中で、一層の重みを帯びていた。

橘美咲の完璧な笑みが、一瞬にして凍りついた。彼女の指が、手帳の革の表面を強く押し付け、その爪先が白くなった。その視線は、白神から逃れるように、一瞬、深町の方へと向けられたが、すぐにまた手帳の上の自身の指へと戻る。

「私的な書簡……ですか。申し訳ございませんが、私には全く心当たりがございません。船長は、私的な郵便物を私に開示することはございませんでしたから。秘書として、そのようなことに立ち入ることは、ございませんでした。」

彼女の声は、再び硬質な丁寧さを帯びた。その視線は、手帳から離れ、虚空をさまよう。その口元は、微笑みを保とうとしているが、不自然に引きつっている。

深町は、白神が意図的に橘美咲を揺さぶっていることを理解した。しかし、彼女の態度は、白神の期待通りに崩れることはない。むしろ、より一層、鉄壁の守りを固めているように見える。深町は、白神がどこまで彼女を追い詰めるつもりなのか、固唾を呑んで見守った。ラウンジの静寂は、二人の間に張り詰めた緊張感を一層際立たせていた。橘美咲は、その引きつった笑みを保ったまま、固く口を閉ざした。