白神は再び船長室の窓辺に立った。分厚い二重窓は、嵐の夜の轟音を遮断し、外界から隔絶された密室を作り出していた。彼は白い手袋をはめた指先で、内側の窓枠をゆっくりと辿る。深町は白神の隣で、首から下げたカメラを構えながら、その動きを注意深く見守っていた。
「ここです」と白神が微かに声を漏らした。
深町が顔を近づける。白神の指先が示すのは、窓枠の木部に残された、ごく薄い油の染みと、その横を走る一本の細い擦り傷だった。傷は浅く、しかし明確に、何かが擦過した痕跡を示していた。
「これは…」深町は小さく息を呑んだ。「何かをこじ開けようとした跡でしょうか?」
白神は首を横に振った。
「いや、こじ開けた、というよりは…何かが滑り落ちた、あるいは滑らせた、という感触です。そして、この油。何の油でしょうね」
彼は指で染みを軽く触れるが、その場では判別しかねる。
「船長室の窓は、内側から厳重に施錠されていました。こんな傷がつくようなことが、一体どうして…」深町は疑問を口にする。
白神は、その問いに直接答えることなく、窓から視線をわずかに外し、部屋の隅にある暖炉へと目を向けた。暖炉の灰の中には、以前発見された溶けた金属片が、鑑識の手に渡る前の状態のまま残されていた。彼は窓枠の傷と暖炉の灰を交互に見つめ、何かを測るように顎に手を当てる。
「この傷は、単なる偶発的なものではないでしょう」白神は静かに言った。「しかし、その意味するところは、もう少し時間をかけて…」
彼はそこで言葉を切り、再び窓枠に視線を戻した。一度は暖炉に逸れた視線が、再び窓枠の油染みと擦り傷に釘付けになる。深町は白神の言葉の続きを待ったが、白神は何も言わず、ただ窓枠の傷を凝視するばかりだった。彼は窓のロック機構や、窓の開閉に使う器具を探し出すような行動には移らなかった。
深町は白神の沈黙に、わずかな焦燥を感じた。彼は再び口を開こうとしたが、白神がゆっくりと窓から離れ、部屋の中央へと歩き始めたため、その言葉は喉の奥に引っ込んだ。白神は、壁に飾られた航海図の前で立ち止まり、その広げられた海図をじっと見つめていた。まるで、窓枠の傷よりも、海図の示す航路に、より重要な意味があるかのように。
深町は白神の行動に、いつもの冷静さとは異なる、何か別の思考の流れを感じ取った。彼は窓枠の傷をもう一度見つめ、その後、白神が見つめる海図へと視線を移した。海図には、豪華客船『春風』の予定航路が赤線で示されており、その一部は春の嵐によって変更された航路を補足するように鉛筆で書き加えられていた。
白神は海図から顔を上げると、今度は部屋の隅に置かれたアンティークの地球儀に手を伸ばした。彼はゆっくりと地球儀を回し、指先で特定の地点をなぞる。その動作は、まるで何かを確かめるかのようだったが、何を確かめているのか、深町には皆目見当がつかなかった。
「この船長室で、何が起こったのか…」白神は独り言のように呟いた。「海堂船長は、何を最後に見ていたのでしょう」
深町は、白神が窓枠の傷から一旦思考を切り離したことを感じ取った。その傷が持つ意味合いは、まだ完全に解明されていないにもかかわらず、白神は既に次の段階へと進もうとしているように見えた。深町は、その傷が持つ可能性を、白神が一時的に見過ごしているのではないかと感じたが、彼にそれを指摘する言葉は見つからなかった。
白神は地球儀から手を離し、再び部屋全体を見渡した。彼の視線は、暖炉、窓、そして壁の航海図を順に追う。そして最後に、被害者の海堂船長が倒れていた場所、暖炉の前の床に固定された絨毯の僅かなずれに目を留めた。絨毯は、何かが引きずられたかのように、ほんの数ミリ、元の位置からずれていた。彼はそのずれを指先でなぞり、ゆっくりと立ち上がった。
「深町君」白神は言った。「船内の監視カメラの映像を、もう一度詳しく確認しましょう。特に、事件推定時刻の数分間、映像が不鮮明だったという部分です」
深町は頷いた。白神は窓枠の傷について、それ以上何も言わなかった。